< 2004年12月 >
CW
(49)    1 2 3 4
(50) 5 6 7 8 91011
(51)12131415161718
(52)19202122232425
(53)262728293031 
他のブログ等: 「技術的生存報告記」 「sakito@twitter」 「はてなダイアリー」 「はてな Emacs グループ」

コンピュータは人間を越えるか part2

これは 昨日の日記

の続きです。

コンピュータは人間を越えるかを問い、それに回答するにはどうすればいいか を考えました。わたしは以下のようにすればその全てでなくても一面に回答で きるのではないかと考えました。 OL - コンピュータは計算機である - 計算機とは計算のみを行なう機械である - コンピュータが人間を越えるとは計算のみにより越える事である - 計算のみで越えるには人間の思考(または理解など)が計算のみにより成立していれば良い /OL コンピュータが人間が保持するとされる計算量を越える日は確実にきます。よっ て、人間の思考が計算のみによって成立しているならば、コンピュータは人間 を越える日がくるという事です。

しかし人間の思考が計算によって成立していないならば、少なくとも計算のみ では越えられない事になります。

上記に反論はあるでしょうか?

もし上記が論理的に反駁できないのであれば、コンピュータが人間を越えるか を問いそれに回答するには人間の思考とは計算のみによっているのか否かを問 えば良い事になります。

では人間の思考とは何でしょう?

わたしの思考の限界はわたしの言語の限界です。そしてわたしの言語の限界が わたしの思考の限界です。なぜならわたしがわたしの言語にできない物は思考 として成立しえないからです。

ここで言う「わたしの言語」とはわたしが表現する言語その物、わたしの認識 その物を指し普通に利用する言語よりやや広い概念で利用している事を断わっ ておきます。

ここで言語化できない思考がある、と言う反論をした場合、すなわちそれはコ ンピュータは人間を越えられないと言明したのと同じ事になります。

コンピュータは計算機です。計算には公式が必要です。公式とは言語の一部で す。それは数学の言語です。

言語化できない思考があるなら公式化できない思考があるという事であり、そ れは計算できない事になります。であればコンピュータにはその思考が不可能 だという事になります。

この場合コンピュータは人を越えられない。

そもそも言語化できない思考とはなんでしょうか?それは思考なのですか?あ らゆる思考は言語であるという事をここでは前提とします。

実際はこの前提を確立するにはひどく長い思考が必要なのでここでは割愛します。

すくなくともコンピュータが人を越える可能性を考えるなら思考は言語でなけ ればならないのです。

ここで言語とはいかなる物かを思考する下準備がととのいます。

続きは明日

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

コンピュータは人間を越えるか

これは大変に難しい問題です。その底にはさらに根源的な問いが存在します。

まずこの問いに回答するために前提を確かめる必要があります。コンピュータ とはすなわち計算機であり、計算しかできない物です。あらゆる事を計算によ り起こなう機械、それがコンピュータです。これを前提とします。

では人間を越えるとはどういう事でしょうか。人間の思考は計算によって行な われている、とする立場があります。これを計算主義といいます。

計算主義に立つと人間の脳の計算速度は2 * 10^16 cpsであるという算出があります。 (詳細は次を参照の事 http://www.kurzweilai.net/articles/art0134.html?printable=1 )

いずれ計算機の計算速度が2 * 10^16 cpsを越える事は確実です。(ちなみに地 球シミュレータは35.86TFLOPSなので35.86 * 10^13 cps)

ではその時コンピュータは人間を越えた状態になるのでしょうか?

わたしは計算主義者ではありません、この場合否と回答する事になります。た だ否では論理的回答ではありません。そもそもなぜわたしが計算主義者でない かを論理的に説明する必要があるでしょう。

わたしは単に計算主義を否定する立場としてこの結論に達っしたわけではあり ませんし、また感情的な物でもありません。

このわたしの世界像はウィトゲンシュタイン、チューリング、ゲーデルらの哲 学および数学的理論という論理的な物と、わたしの信仰という非論理的な物の 影響下にあります。

もしあなたがウィトゲンシュタインと同じ問題に関して思考した事があるなら 結論は似た物なるかもしれません。

まず計算主義がなぜ問題なのか、という問いがあります。

計算主義に立つと、法律や論理つまり言語は計算によりみちびかれた事になり ます。論理が計算で算出可能であるなら、それは正しさが計算で算出される事 になります。

さて我々の法律は、計算により算出されたのでしょうか。

これでは批判にならないというならばそうかもしれません。さらに先を思考す る必要があります。

論理とはどのように成立するのか、という事です。それは言語の問題でもあり ます。これは心理学の問題ではありません。ひどく論理的な問題です。

さらに追及してみなければなりません。人間が人間であるとはどのような事に よるのか。

今日は時間がありません。この続きはまた明日継続して考えたいと思います。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

信仰という命綱をたよりに世界の端に立つ

自分の世界の端に立つ。これほどの恐怖はない。あまりの恐怖に端から落ちて しまいそうだ。しかしこれほどの生きる意味を知る行為もない。

わたしは自分が端から落ちるのが容易な人間だと感じていたが、こうして見る と端に近づく事さえも困難である事がわかる。やはりわたしもこの世界の上に 生きている。そしてこの世界から逃れる事はできない。また逃れようとは思わ ない。

しかし、少なくとも生きていたいと強く思う。またそうあるべきだと思う。

生きるとはただそこに何もせずあるだけではない。世界に主体的に関係する事 だ。

関係こそが全てを形成する。関係こそすべての原点である。

わたしの信仰とはこの関係への信仰に他ならない。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

世界の上に乗り続ける

昨日の日記

で一人焼肉って書いたら淋しすぎるという突っ込みが。まあ年に数えるほどし か一人ではいかないです。あと長時間ゆっくり食うのにつきあってくれる人は いないので仕方ありません。時には自分のペースで肉を食べたい時もあります。

一人になる事は時にわたしには必要です。わたしはこの世界に乗っているのが 結構努力が必要でいつもルールを考慮しながらでないと上手く世界の上に乗っ ている事ができない。人との交流も結構大変だったりする。基本的には一人の ほうが好きだったりする。

ただ、一人だと物事が完成する事は決してない事を知っているし、物事を完成 させたいと望んでいる。だから人との関係を強く望む。

でも時々やっぱり大変。一人になりたい時もある。まあそういう時には一人で 焼肉屋とかに行く。すいてる時間をねらうと長時間いても店員さんけっこうほっ といてくれますし。

まあ本当に淋し事態になる事を避ける手段の一つです。人は時にそれをストレ ス解消とか言うのかもしれないですけど。

HNSの設定

キャッシュのせいでリンクがexampleのままになっていた。直した。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

今日の出来事

作業をしていないので日常生活をメモっておく。どうも仕事をしたりしないと 作業が進まないようだ。

朝起床するとまだ雨がふっていた。風も強い状態で外に出たくないので部屋の 掃除。12月中は今後ちゃんと掃除できる日があるか不安だ。家に帰えってこれ るのだろうか。

昼に近くなると雨が止んで晴てきた。というか暑い。冬かと疑うほどに暑い。 洗濯物をする。よく乾きそうだ。

洗濯をしたら床屋へ、暑いという話でもりあがる。常連なのでプログラム的な 話もする。売上計算をExcelでやりたという話とか。

暑いが冬物がどうしてもほしかったので近くの服屋へ。とりあえず上に着る物 を買う。ちょっと安く売っていたのは暑いからだろうか。ついでなので下着も 購入。予定よりちょっと買いすぎたかもしれない。

書店に立ちよるも目的の本はなし。小さな書店なのであまり期待していなかっ たけど。

家で仕事関係。各種調査。調べ物が多すぎます。調べるだけでほとんどの時間 がおわってしまう。

夕方どうしても肉が食べたい衝動にかられる。近くの焼肉屋に文庫を持ち込み 一人焼肉。端の席を希望して一人でゆっくり肉を焼きながら本を読む。かなり 長時間いた模様(^_^;;。デザートのアイス食べて合計しても5千いってないくせ に長時間いすわるのはいかがな物か。まあたまにはいいかな。

洗濯物がほぼ乾いている。残念ながら時間があまりないので短時間近くのコイ ンラインドリーの乾燥機にかけてかたずける。朝から洗濯できれば完全に乾い たかもしれない。

日記を書く。

日記を書きながらサイトその他を検索。某所でワーグナー全曲集(10万円越えま す)を買うかかなり悩む。結局買うのはやめる。なんか買うとiPodとかも買いた くなりそうだし。基本的にわたしはケチなのです。

このあとは明日の用意して、本を読んだら作業をせずに寝る予定。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

冬仕度

まだしてなかったんかいという感じですが、実体は冬服を買い足ししただけで す。

明日また買物しに行く予定。雨やむかな。。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

無駄な思考はあるか

他者にとって無駄というのはあるが、自己にとって無駄というのは無い。思考 は一端つきつめてみないと理解できない事が沢山ある。

理解しているつもりってのが一番恐いと思う。

例えば地球という単語にしてもわたしの使う地球と他者の利用する地球はきっ と意味が違う。それも他者は日々変化していて今日利用した地球の意味と明日 利用する地球の意味はきっと違う。またわたしも変化していて相手の利用した 地球という意味の捉え方も変化してします。

今本当は自分が何をどう理解しているかを思考してみる事は自分がいったい何 物か。自分が生きているとは何かを知るには良い手段だと思う。

12月だ

今年はかなり暖かい。

年末は忙しいな。。家を出た日の内に家に帰えてこれる事がほとんどない。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

分析可能性

人という単語、空気という単語、世界という単語を比較した場合、人より空気、 空気より世界がより分析されるうるように感じる。

この問いは論理的か。

世界は変化する

分析は厳密性を持ってやればおそらく有限なのだが、自然にやると無限になる ような気がします。

そもそもこれはやはり考え方が変なのです。考えた結果世界は変化する物で永 遠不変ではないと断言するに至りました。またそれを支える物がもしあったと してもそれは不変ではない。

もし不変だと感じたとしてもそれは地球は自転しているがわたしたちが自転に したがって同時に変化している(という表現は不適切だが)ため気づかないとい う事に似ている。

世界の変化に対応しない物はこの世界から消滅していくので、現在の上では常 に絶対的な世界の上で物事が成立しているように見えるという事だ。

頻繁にわたしは日常をゲームに例えて来たがゲームとは規則の存在を前提とし た考え方だ。しかし自然な世界というのはルールが絶対な物ではないのでゲー ムの例えはやや不適切なのだろう。

何に例えるのが適切なのかはまだ不明だ。

世界は常に変化している、というのが結論。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

関係

空気とわたしとの関係、世界とわたしとの関係、わたしと他者との関係は論理 的に違う所は何か、また同じ所は何か。

関係

わたしと他者との関係は変化する。他者は常に変化しているし、わたしも常に 変化している。わたしと他者に同時に起こる変化は両者の関係を変化させる。

時には今の関係が永遠不変であるように思われる時もあるがそれは非論理的な のだ。しかしその永遠不変を信じたくなる。

わたしと空気の関係は変化する。空気は変化していないように感じる事もある が、日々その成分は微妙に変化している。

時には今の関係が永遠不変であるように思われる時もあるがそれは非論理的な のだ。しかしその永遠不変を信じたくなる。

上記よりわたしと世界の関係も変化していると考えるのが論理的なのではない か。しかしわたしはこれの答えを躊躇し動揺を隠せない。

今の関係が永遠不変であるように思われるからだ。

もし世界の変化を認めても、世界を支える梁は変化しないのではないかと信じ たくなる。

しかし、その梁を支える梁はあるのか?その梁は不変かと論理的に思考すると それは不変でないと回答する事になる。

わたしは今、地動説を教える話という逸話を思いだしている。

先生「地球は太陽の周りをまわっているのです。地球は動いています。宇宙に ただよっているのです」

生徒「違います。世界は亀の上に載っているのです」

先生「その亀は何の上に載っているのです?」

生徒「当然亀の上です」

先生「(勝ち誇ったように)ではその亀は何の上にのっているのです?」

生徒「違います。その下もその下もずーーと亀なのです」

わたしは無限論に関して考えなければならないのか。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

思考とは何か

思考の限界は世界の限界と思われる。

思考を限界付けるのは言語なのか。わたしはコミックを知っている。コミック は言語か。コミックは思考か。コミックは言語に絵を付けているだけの物なの か。

ではピカソの絵は思考か、思考でないか。何かの言語が絵画なのか。

言語の限界が思考の限界でないと思われる。がそれは誤解なのか。

私信

今の所大丈夫。

日記を連続して書いているのは今の所目の前の問題を乗り越えようとしている 積極的行為です。

また考えが散発的に見えたり混乱しているように見えるのは、まとめていない からです。

もう一つ次へ行くために今これが必要だと感じたのでやっています。

また話しましょう。次はもうすこし人の話を聞ける人になっていたいと思いま す。

言語と思考

言語の限界が思考の限界であるかという問いに関しては否と感じます。わたし は絵画やジェスチャー、踊りでさえも思考の枠内であると感じるからです。

また言語をまだ修得していない赤ん坊は思考していないかという疑問であれば、 わたしは思考していると感じます。

わたしの思考の理解が変でしょうか、また言語の理解が変でしょうか。わたし はこれが正常だと感じます。

わたしの言語の限界がわたしの思考の限界であるかという問いであれば是と回 答できるかもしれません。

「わたしの言語」には絵画もジェスチャーも踊りも含まれるようにわたしには 感じるからです。

赤ん坊は赤ん坊の言語で思考している、という表現をわたしは受け入れる事が できます。

であればここにあるわたしとは何であるか。

断片的な記述

わたしとは関係によって成立している一個であるとわたしは感じる。ただ世界 の前に独りたっているだけではわたしは成立しないと感じる。わたしは他との 関係によってのみ成立しているように感じる。

空気はわたしが知る前から存在している。それはわたしが知る前から完全な存 在だ。わたしは空気を知った瞬間息苦しく感じる。空気を思考するなと言われ るとさらに息苦しく感じる。

空気の事を十分に知らないからといって空気が不完全なわけではない。

空気の事を知った瞬間からわたしはわたしと空気の間に関係が始めて構築され たかのように感じる。

空気をわたしが知る前から空気とわたしには関係があるのは明白だ。

空気に関して思考をきわめないと本当の関係が理解できないように感じる。

世界は空気のようだ。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
このエントリーをはてなブックマークする はてなブックマーク数 このエントリーをdel.icio.usに登録する このエントリーを Tumblr する このエントリーに Twitter 経由でコメントする このエントリーに Disqus 経由でコメントする

このページの先頭へ

copyright (CC-by) 1999-2024 sakito
Powered by pyblosxom. Theme: TheBuckmaker.