< 2004年11月 >
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思考とは何か

思考の限界は世界の限界と思われる。

思考を限界付けるのは言語なのか。わたしはコミックを知っている。コミック は言語か。コミックは思考か。コミックは言語に絵を付けているだけの物なの か。

ではピカソの絵は思考か、思考でないか。何かの言語が絵画なのか。

言語の限界が思考の限界でないと思われる。がそれは誤解なのか。

私信

今の所大丈夫。

日記を連続して書いているのは今の所目の前の問題を乗り越えようとしている 積極的行為です。

また考えが散発的に見えたり混乱しているように見えるのは、まとめていない からです。

もう一つ次へ行くために今これが必要だと感じたのでやっています。

また話しましょう。次はもうすこし人の話を聞ける人になっていたいと思いま す。

言語と思考

言語の限界が思考の限界であるかという問いに関しては否と感じます。わたし は絵画やジェスチャー、踊りでさえも思考の枠内であると感じるからです。

また言語をまだ修得していない赤ん坊は思考していないかという疑問であれば、 わたしは思考していると感じます。

わたしの思考の理解が変でしょうか、また言語の理解が変でしょうか。わたし はこれが正常だと感じます。

わたしの言語の限界がわたしの思考の限界であるかという問いであれば是と回 答できるかもしれません。

「わたしの言語」には絵画もジェスチャーも踊りも含まれるようにわたしには 感じるからです。

赤ん坊は赤ん坊の言語で思考している、という表現をわたしは受け入れる事が できます。

であればここにあるわたしとは何であるか。

断片的な記述

わたしとは関係によって成立している一個であるとわたしは感じる。ただ世界 の前に独りたっているだけではわたしは成立しないと感じる。わたしは他との 関係によってのみ成立しているように感じる。

空気はわたしが知る前から存在している。それはわたしが知る前から完全な存 在だ。わたしは空気を知った瞬間息苦しく感じる。空気を思考するなと言われ るとさらに息苦しく感じる。

空気の事を十分に知らないからといって空気が不完全なわけではない。

空気の事を知った瞬間からわたしはわたしと空気の間に関係が始めて構築され たかのように感じる。

空気をわたしが知る前から空気とわたしには関係があるのは明白だ。

空気に関して思考をきわめないと本当の関係が理解できないように感じる。

世界は空気のようだ。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
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