現在ではほぼ問題にならなくなってきましたが、ぼくにはいくつかの精神的な
問題がありました。
かつてもっとも問題となったのは人から信用されるのを恐れるという精神的問
題です。信用されはじめると恐れを抱くのです。
時にはその恐れのあまり、異常行動を行なった事もあります。
仕事では非常に重要な事をやりながら、能力よりは低い事しかやらないという
事を行なってしまったりしていました。
なぜかを考えてみました。
ぼくは比較的甘やかされて育てられました。というより特殊な育てられかたを
したのだと思います。
自分が思った事が自動的に叶えなれるという状況で育ったのです。
実質的には非常に感受性が強く、周りが望んで欲しい事を望んでいたのですが、
それには気づいていませんでした。
状況的にはあたかも自分が望んだ事を周囲が自動的に行なっているような感じ
になったわけです。また周囲がそれを肯定するという状況でもあったわけです。
しかし世界とはそういう物ではないわけです。感受性が強いといっても世界は
そのままを望んでいるわけではありません。
ぼくの最初の挫折は大学の時でした。完全な一人暮らしの開始です。
これと同時にぼくは自分がいかに自己の宗教的な思考にたよって生きていたの
かを発見したのです。
それが同時に恐れを産みました。
ぼくの宗教は布教禁止です。言葉により布教する事を禁じます。
人から信じられるのは、ぼくの宗教的が信じられる事と同一でした。ぼくはぼ
くその物が宗教その物なのです。それはあってはならない事なのです。布教と
同じ事ですから。そう思っていました。
しかし、人とコミュニケーションを取り、普通に生きているとそうではないの
だとわかってきたのです。あたりまえの事がわかってきた。
他人はどうやってもぼくの事は理解できない。ぼくと他者であるかぎり絶対に
理解しあえない。そんな事は当然な事なんだ、という事に気づきはじめました。
他者と分りあおうという努力は無駄です。しかし対立しないように努力する事
は必要です。理解はされなくても少なくとも対立でなく協力し会う事は可能な
わけです。
協力しているからってそれは信じていたり、理解しあっているって事ではない。
ぼくは人から信じられているという幻想を恐れていただけだったわけです。
人と理解し会えない事を理解した時、ぼくは一人で生きられるようになって来
ました。そして一人で生きられる事で始めて他者とコミュニケーションを良好
に取れるようになって来ました。
他者との理解を断念する事は絶望ではありません。大きな可能性の開始です。
理解しあえない他者がいるから、この世はすばらしい。というのがぼくの信念です。