< 2005年01月 >
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何を教えれば良いか

新人に教育をする事がありますが、何を教えれば良いのか困る事があります。

いわゆる構造主義における<構造>のような物、ウィトゲンシュタインの言う語 り得ぬ物を教えれば良いわけですが、それは多数の実践の上に成立しています。

変な例えですが、「将棋の駒の置物」を例にしてみます。

将棋の駒の置物に何の価値があるのでしょうか?将棋を知らない人には何の価 値もないはずですし、意味さえ不明です。はっきりいって塵以外の何者でもあ りません。

でも将棋を知っている人にとっては意味がわかるはずです。まして将棋をやっ た事がある人ならなおさら意味が分るはずです。

さらにその置物が将棋大会のトロフィーだったりしたら、それを持つ人にとっ ても意味は大変な物かもしれません。

であなたが、将棋大会で優勝してトロフィーとして将棋の駒の置物をもらった とします。邪魔だと思うかもしれないですけど、一つの功績の印です。

人に自慢するとしてどう説明するのか。その相手が将棋知らない場合。知って いる場合。やった事のある場合。同じ大会に出た人の場合。それぞれで既知の 構造が違うはずです。

ぼくが人に物を教える場合、ほとんどの場合相手はこの例で言う「将棋知らな い場合」にあたります。

もっとひどくて、日本にゲームがある事を知らない場合や、さらにひどくて、 木材の存在を知らない場合もあります。

将棋の駒の置物が木材でできているなら、木材に関して既知にそれが世界でど のような位置を占めているかを知らなければなりません。

でなければ、なぜ木材でできているのかを説明しなければいけません。

本当に相手が無知であると絶望感さえも発生しません。どこから教えれば良い のかまったくわからないのです。すでにとらえている構造そのものがまったく 違うのです。

これはぼく自身にも言える事です。自分の構造がすでに問題だと言う事。

Author: sakito Category: /diary/2005 Permalink: Permalink
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