コンピュータは何度も人間を越える -- 厳密性批判
コンピュータは何度も人間を越えています。いままで何度「コンピュータが人 間を越えた」と言われて来たのでしょうか。チェスでコンピュータが人間に勝 つ前にも「コンピュータが人間を越えた」と言われた瞬間は何度もあったし、 今後も何度もあるはずです。
しかし通常「越えた」という事象は一回しか発生しないのではないのではない か、それは実は越えたのではないので誤用だ、と言うのでしょうか。
実際の利用で「越えた」と利用されています。実際の利用が本質です。であれ ば「越えた」という単語はなんらかの制限を越えた場合に利用される習慣を持 つだけにすぎません。
よってコンピュータは人間を越えます、それも何度となく。
「彼は午後6時に帰宅した。」さて彼が帰宅したのは何時でしょうか?
当然6時?いいえ、彼は本当は5時57分に帰宅したので5時です。これは屁理屈で すが実際の言葉の運用では6時で問題ありません。
ここには厳密性の問題があるようです。厳密性を避けるための理論等がありま すが、これさえも厳密性の中に立っています。
人間の思考は厳密性の中で行なわれているのでしょうか。近年の脳科学の分野 では人間の思考が厳密性の中で行なわれていないのではないかとされる説もあ るようです。
厳密性がない場合、それは計算的でないという事です。計算にできないのなら ば、その思考はコンピュータには不可能でしょう。
今問うているのはコンピュータは思考可能か、という問いになっています。
人間の脳の計算速度は2 * 10^16 cpsと算出できる、という説を一回目に紹介し ました。この計算速度を越えた時、本当にコンピュータは自ら思考するように なるのでしょうか?自ら思考するとは、チェスをする事しかプログラムされて いないコンピュータが囲碁や将棋に興味を持ち、それを始めた場合等を指しま す。
わたしは計算速度と自ら思考する事に大きな飛躍があるのではないかと思いま す。計算速度だけでは思考とは違うのです。2 * 10^16 cpsを越える前に思考が 可能になるかもしれないし、越えてもなお思考が不可能かもしれません。
思考できないのならば厳密な意味でコンピュータは人間を越えられません。い つまでも人間がプログラムしてあげる事になり、後は人間の思考の限界により その限界が設定されるに留まります。
「コンピュータが人間を越える」の定義を「人間の思考の限界からの離脱」と 定義し、コンピュータが人間を越える事ができるのか、と問うと可能かどうか は良くわかりません。
この定義で実際に越えた場合、人間はコンピュータの思考を理解不可能になら ねばなりません。なぜなら人間には思考できぬ事を思考する存在になるからで す。
いつかその日が訪ずれるのでしょうか。
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