文、および言語と思考
「コンピュータは人間を越えている」
「ライオンは人間を越えている」
「北島康介は人間を越えている」
上記の命題全てYesと回答する人がいても異常とは思いません。ごく普通の会話 でありえるはずです。
ここでは「越えている(x)」という公式のxに名詞を入れているだけですがxによ り越えているの意味が変化しているのでしょうか。
実際には意味が変化しているのではありません。文が違います。越えるの意味 は変化しているわけではありません。
文の分析が意味を成さない事がわかります。文解析をして分割しても実際は意 味がわからない事を表わします。
「コンピュータは人間に勝った」
「核兵器は人間に勝った」
普通下の文はおかしいでしょう。
「コンピュータは人間に勝った」も実はおかしいのかもしれません。それは単 にコンピュータをプログラムした人達が勝ったと見るのが正常なのかもしれま せん。しかし「コンピュータは人間に勝った」という文を異常には感じません。
これはいつのまにか人が「コンピュータは人間に勝った」という文の利用方法 を覚えたという事です。
「コンピュータは人間を越えている」という文にしても人はやがてその文の利 用方法を覚えるはずです。いやすでに覚えたのかもしれません。この文の利用 方法を覚えた場合、この文は言葉として発っせられる機会は非常に少なくなる はずです。
「コンピュータは人間を越えている」を前提として思考が行なわれる事になる からです。
コンピュータはまだ人の計算速度においついていません。店のレジで人の代り もできません。しかし「コンピュータは人間を越えている」という文は会話で 普通に利用できますし、意思が通じるはずです。人は「コンピュータは人間を 越えている」という文をそういう意味に利用するようになったのです。
その意味で「コンピュータは人間を越えている」という文はすでに正しく完全 です。
これは言語が不完全であり、本当に伝えたい事が伝えられないからこうなるの ではありません。言語は完全なのです。言語はその文だけから成立しているわ けではなくあまりに多くの前提から成立している事を忘れてはいけません。
「コンピュータは人間を越えるか」という問いは問いとして意味がなくなって きています。なぜなら人は「コンピュータは人間を越えるか」にYesと回答する 割合が多くなってきているからです。やがてこの問いその物を発っする事が 「わたしには手をがある事を知っている」という文と同じあつかいになる日が きます。コンピュータは人間を越えた事を前提として思考が行なわれる日が来 るのです。しかしその日が来ても、コンピュータは人間の代りをまだしていな いでしょう。
「コンピュータは人間を越えるか」という文は変化しませんが、そこに含まれ る物は変化していきます。それは人とコンピュータとの関係の変化です。
人はコンピュータに慣れていきます。コンピュータもまた変化していきます。 その関係の中で「コンピュータは人間を越えるか」という文は否応なく変化を 強いられるのです。
この問いが問われなくなった時、コンピュータは人間を越えたと言えます。そ の日はいずれきます。
「コンピュータは人間を越えるか」という問いは本当は無意味です。「コンピュー タは人間を越た」からです。「コンピュータは人間を越た」事は人間の代りを できるようになった事を意味しません。「コンピュータは人間を越た」とは何 かの説明を求めた時の回答の仕方によって越えたのです。
文とは関係です。言葉とは関係です。思考とは関係です。その関係はいつのま にか覚える物です。いつそうなったのかはわかりません。
ただわたしたちはそこから逃れる事はできない。
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