私的であるという事は他者にはまったく無関係であるという事です。よって私
的な事柄は他者から見ると無意味であったり馬鹿馬鹿しい事限りないという事
になります。時に意味を見い出したとしてもそれは他者の私的な行為を見て自
己の私的な行為を顧みる事により自己の私的な事項に気づいているだけにすぎ
ません。
では私的な思考を行なうのは意味があるのでしょうか。
まずここでの私的な思考が自分捜しという物とは別の行為である事を確定させ
ておきたいと思います。自分捜しと呼ばれたりする行為は自分がここには無い
事を前提としています。しかしながらここでおこなっている私的な思考は自己
がここにすでにある事を前提としています。つまり自己がこのように生存して
いるのはまさに生存しているからである事を認めています。すでに存在する物
を捜すのは無意味です。
ではまさにこのようにあるならばなぜこのようにあるかを知る事には意味があ
るのでしょうか。わたしはわたしにとっては意味があるという回答をここです
るしかありません。それが私的であるという事です。
まさにこうあるという事はこうある事を規定する前提があるはずです。このよ
うな思考をするならば思考を規定する前提があるはずです。
わたしは前提なしであったり説明不能の信念に基づいて行動をする場合があり
ます。行動し、思考した後に自己のテーマはこうではないか?という思いが発
生するというのがむしろ普通です。
世界というゲームは普通プレイ(実践)が先にありルール(規則)が後にある物で
す。わたしの行動や思考もプレイ(実践)される事が先です。わたしはこの世界
がいったいどんなゲームであるのか未だ知りません。しかし多少歪んでいても
プレイ(実践)している事は事実です。まさにプレイ(実践)しているゲームがど
のようなゲームであるかを知りたいと思うのです。
この思考の前提は、わたしの思考の限界がわたしの世界を限定してしまってい
るという問題と同時に、世界の限界はわたしの思考の限界であるという事があ
ります。まず自己の思考を限定付ける事をなくしていきます。やがて世界の限
界としての思考の限界にぶつかるのでしょうか?わたしの今の思考の限界が世
界の限界には見えません。今は単に思考が薄いだけです。世界の限界に触れて
さえいないのです。世界はまだこのような物ではないはずです。
わたしの思考はわたしの世界を限定します。わたしの世界はわたしの思考を限
定します。つまり思考と世界は同一です。
思考不可能な物があればそれは世界の範囲外です。世界の範囲外はあるのでしょ
うか?わたしはそれがあると信じているのです。
しかし、単に自己の思考が薄いがためにそれが世界の範囲外であるかのように
誤解している状態はいやなのです。誤解した物を信仰するのはわたしは耐えら
れない。わたしの信仰は絶対的に世界の範囲外の物を信仰する物です。つまり
思考の絶対的範囲外です。思考する事ができない場所とはいったいどこかを思
考するのがいかに困難か。
わたしがこういう思考を必要とするのは問題なのかもしれません。人には不要
な事のはずです。なぜならまさに生きている事は疑いないのですから。ただわ
たしがこの世界で上手く生きていないのがこの問題を思考させている。その生
きづらさはわたしの私的な物です。よってこの思考も極めて私的以上の物には
なりません。そう感じているのはまさにこのわたし以外ではありえないからで
す。
長いわりに内容が意味がない日記になってしまった。この問題はまだまったく
ちゃんと思考していない。まさにあるままを置いてみた。