< 2004年11月 >
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生存報告とは何か

この日記は生存報告記という名前です。記は日記とか記録とか記述とかの記で す。

では生存報告とは何でしょうか。そもそも生存また生とはなんでしょうか。

生とはわたしにとっては生きる事です。トートロジーとしてしか語れません。 ただし、これはわたしにとってはかつては問題でしたが今は問題ではありませ ん。

生きるとは世界をあるがままに生きる事であり、今の世界に在るがままに在る 事です。生存とはその在る事その物です。

では生存を報告するとはどういう事でしょうか。生存は在るがままに生きる事 です。在るがままに生きるとはまったく何もしないという事を意味しません。 この世界は完全です。世界が完全であるが故にわたしはこの世界の事象に影響 を与える事は不可能です。その意味でわたしは世界に対して無力です。しかし ながら、わたしは世界のなかで生きて在ります。そしてわたしもその世界の一 部です。そして一つの独立した個の存在です。

在るがままに生きるとは世界の在りかたを思考する事その物です。この世界は 完全であるが故にその世界の中で在るがままに生きるのに思考を必要とするの です。ただ思考をする事によりただ在る事が可能なのです。

生存報告とはただ生きる事その物です。わたしにとってはこれが必要なのです。

わたしの生はただわたしだけの私的な物です。それは他者の物ではなくまたわ たしが具体的に知る唯一の生です。

わたしの生は人に本当に語る事は不可能です。人に教える事もまた不可能です。 ただそう在るだけです。

まさにこう在る事を単に生きる。それがわたしの生存報告です。

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極めて私的とはどういう事か

私的であるという事は他者にはまったく無関係であるという事です。よって私 的な事柄は他者から見ると無意味であったり馬鹿馬鹿しい事限りないという事 になります。時に意味を見い出したとしてもそれは他者の私的な行為を見て自 己の私的な行為を顧みる事により自己の私的な事項に気づいているだけにすぎ ません。

では私的な思考を行なうのは意味があるのでしょうか。

まずここでの私的な思考が自分捜しという物とは別の行為である事を確定させ ておきたいと思います。自分捜しと呼ばれたりする行為は自分がここには無い 事を前提としています。しかしながらここでおこなっている私的な思考は自己 がここにすでにある事を前提としています。つまり自己がこのように生存して いるのはまさに生存しているからである事を認めています。すでに存在する物 を捜すのは無意味です。

ではまさにこのようにあるならばなぜこのようにあるかを知る事には意味があ るのでしょうか。わたしはわたしにとっては意味があるという回答をここです るしかありません。それが私的であるという事です。

まさにこうあるという事はこうある事を規定する前提があるはずです。このよ うな思考をするならば思考を規定する前提があるはずです。

わたしは前提なしであったり説明不能の信念に基づいて行動をする場合があり ます。行動し、思考した後に自己のテーマはこうではないか?という思いが発 生するというのがむしろ普通です。

世界というゲームは普通プレイ(実践)が先にありルール(規則)が後にある物で す。わたしの行動や思考もプレイ(実践)される事が先です。わたしはこの世界 がいったいどんなゲームであるのか未だ知りません。しかし多少歪んでいても プレイ(実践)している事は事実です。まさにプレイ(実践)しているゲームがど のようなゲームであるかを知りたいと思うのです。

この思考の前提は、わたしの思考の限界がわたしの世界を限定してしまってい るという問題と同時に、世界の限界はわたしの思考の限界であるという事があ ります。まず自己の思考を限定付ける事をなくしていきます。やがて世界の限 界としての思考の限界にぶつかるのでしょうか?わたしの今の思考の限界が世 界の限界には見えません。今は単に思考が薄いだけです。世界の限界に触れて さえいないのです。世界はまだこのような物ではないはずです。

わたしの思考はわたしの世界を限定します。わたしの世界はわたしの思考を限 定します。つまり思考と世界は同一です。

思考不可能な物があればそれは世界の範囲外です。世界の範囲外はあるのでしょ うか?わたしはそれがあると信じているのです。

しかし、単に自己の思考が薄いがためにそれが世界の範囲外であるかのように 誤解している状態はいやなのです。誤解した物を信仰するのはわたしは耐えら れない。わたしの信仰は絶対的に世界の範囲外の物を信仰する物です。つまり 思考の絶対的範囲外です。思考する事ができない場所とはいったいどこかを思 考するのがいかに困難か。

わたしがこういう思考を必要とするのは問題なのかもしれません。人には不要 な事のはずです。なぜならまさに生きている事は疑いないのですから。ただわ たしがこの世界で上手く生きていないのがこの問題を思考させている。その生 きづらさはわたしの私的な物です。よってこの思考も極めて私的以上の物には なりません。そう感じているのはまさにこのわたし以外ではありえないからで す。

長いわりに内容が意味がない日記になってしまった。この問題はまだまったく ちゃんと思考していない。まさにあるままを置いてみた。

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公開していることで発生する限界

極めて私的な文章であるにもかかわらず公開しているという矛盾によりこの記 録に掲載している文章には自ずと限界が生じているように時に感じます。

公開が憚られるほどに私的な事が記述できないという事がその一つです。

この生存報告において記述される文章のほとんどは自分の生存のために成され た思考を記録しておいている物です。そのため極めて私的な事柄を記述しない と生存の問題に実際はせまれない場合もあります。そのような場合は記述を極 めて曖昧にするか、名を付け変える事による単純な暗号により記述する事にな ります。

NHS秘密日記機能を利用する手も考えたのですが、極めて私的な記録は電子的に 残したくないという事さえあるのです。

以前から私的な記録を書く必要が生じた場合は草稿を紙に記述してそれの一部 から結論のみを記述している記録も存在します。その場合は突然結論が出たよ うに見えているかもしれません。この場合自分が後日その思考の営為を再現で きるかは不明です。おそらく再現は可能なのですが、言葉として記述されてい ない営為は結果的には無為になる可能性を秘めています。

そもそも公開しないという事は考えていません。わたしにとって生存を報告す るとはただそこにいる事を報告する事ではありません。それがこの記録が公開 されている意味です。

公開する意味がどういった意味かを記述する事は今はまだ不可能です。それを 記述するためにこの日記録は公開されているという事です。

正確に記述するには論理的記述を必要とします。よって論理の練習の必要があ ると思っているのです。文に記述できる限界はあるのかは問題ではありますが、 可能であるなら後は練習の問題です。

この記録が生存報告である意味をこの記録の中で示し記述していきたい。

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論理的に文章を書く必要性

この一週間毎日最低5分かけて日記を書いて来ました。それを読みなおして気づ いた事は自分の日記がかなり非論理的文章だと言うことです。

まず、前提において他者が知り得るはずのない情報を多量に含む知識から記述 が開始する場合があります。これではその後の記述の正当性を判断不可能です。 当然のように外部の人にはまったく意味を成さないと思われます。何か意味あ りげな事書いてあるな、のように感じるのは単に前提がないためにその何かが 判然としないというだけにすぎません。

ただ、この日記はあくまでも私的な日記であり他者にわかる事を目的としてい ないため非論理的であるのは問題ではないという見方も可能です。しかし、た とえば来年自分で読んでその非論理的記述を自分で理解する事が可能かが問題 です。

論理的であれば推論の蓄積がされるので意味ある蓄積となりえる可能性があり ますが、非論理であればそれは砂上の楼閣と同じ事になってしまいます。

前提を確定させた上で始めてその論理が成立するはずです。

他者が持ちえる知識を明確に判断し、またその前提となる知識の確実性に関し て考慮する必要があるように思います。

ここには論理とは何か、思考はどこまでできるのか、では言葉もしくは文章に する事はどこまで可能か、そして確実性とは、という問題があります。

上記の反省より、論理の練習をする必要があるように思います。以後の日記は 極めて私的な営為として論理的記述を勤めて行なう練習をしたいと思います。 また一日の内で論理的であった思考、もしくは非論理的であった思考に関して 一つは最低見付けるようにしていく事で、自己の思考の問題を解明してみたい と思います。

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思考の捻れ

思考が捻れているのには気づいている。直す努力はしているがやはり捻れる事 が良くある。

思考の捻れはいろいろな要因がある事がわかっているが根治するのは難しいと の事。結局そういう部分を認め、ひたすら修正する努力するをするしかないよ うだ。

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求められる能力の変化が理解できるか

年齢が上ったり立場が変化する等で他者との関係に変化が生じると当然求めら れる能力には変化が産まれます。関係が変化したのであれば、何が力となるか も変化します。

たとえば技術力だけでやって来た人が関係の変化で管理側になった時、自分が 何を求められているか実際にすぐに理解できるとは思えません。わかっている つもりでも、実際にはわかってなどいない事が多いのです。最悪なのはわかっ たつもりとか問題ないとかそういった態度のように思います。

問題は常にある物です。どのような事をやっていても必ず問題はある。解決し たと思う問題でも一つの回答を出しただけで、さらに別の回答がある物です。

今やっている事は前よりちょっとましなだけにすぎません。

求められた能力が何なのかを理解するのはかなり困難なのかもしれません。簡 単だ、問題ないと思うならそれは問題です。

能力というのは産まれついて持っている物ではありません。実際には練習を重 ねて理解していく物です。産まれつき持っているように見える人もいますが、 だからと言ってそういう人がすぐれているわけではありません。

結局は今やっている事は次のちょっとましな事をやるための練習という事に常 になってしまうのかもしれないです。

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本当に望み本当に信じている事は何か

たとえばWebサイトを運営していて何を望むのでしょうか。アクセス数でしょう か?アクセス数を得ると何が叶うのでしょうか。アクセス数その物が本当に望 む物ですか?

本当に自分が何を望んでいるかを知っている人は少ないように感じます。さら には自分がいったい何を信じているのかを知っている人も少ないように感じま す。これは単にわたしがそう感じるという事にすぎないので本当かどうかは不 明です。少なくともそう感じるわたしはその通りなのだと思います。

わたしは他者との関係を本当に望んでいるのか、という問いであればそれも望 みであるけれども実際に本当に知りたい事はこの世の仕組みが知りたいのだと 思います。信じている事はこの世に仕組みがある、という事でしょうか。

疑うべきはこの世に仕組みがあるという信念なのかもしれません。しかしわた しはなぜかそこは議論なしに仕組みがあるという事を信じています。

この場合仕組みを知ったとしてどうするのが望みなのか、というのがさらに問 いとなるでしょう。

おそらく探究すると底がないのですが、現状のわたしにとっての底はこの仕組 みという概念その物のようです。

この世界が奇跡でできている事は認識しています。だから本当には仕組みなん て物はないんでしょう。仕組みなく動作するからこそ奇跡なのかもしれません。 それでも種が知りたい、一部には種があるはずだという信念がなぜかあるので す。矛盾していますが、その種の原因その物がわたしの信仰なようです。

なにを望んでいるのか、という問いは本当に自分がやりたい事を自分に知らせ てくれます。それは何のためなのか、今自分は何をやっているのか、それは望 みに近づくのか。

自分を知る事、自分が知っている事を知る事はとても困難です。しかしその一 部でも知る事ができれば自分という物の意味がわかるのかもしれません。

年末までの目標

  • 日記を毎日5分書く
  • 人の話しの途中に発言しない

人の話しの途中に発言というのは結構やってしまう。どうも我慢できない時が ある。相手があきらかに過った発言している時とかはどうしても止めてしまう。 でも相手には相手の意図があるわけで、本当に話したい事が何かを知るまで発 言を止めるべきではない。

待つという事を訓練したい。

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自己盲目という問題

自分の事は自分が一番見えていない、というのが実際の所です。自分の考えて いる事を自分が実際は良く理解していない事さえもあります。また、自分の言っ ている事が矛盾している事に気づかない事なども良くある事です。

実際日記を連続的に書いてみて良くわかったのは、本当に自分の事が見えてい ないという事です。

例えば、他人のいる事が奇跡だと言っているのに、自分が力がないからだめだ と言っているのが矛盾だというのが気づきの一つです。

自分が本当に求めているのは力ではなく関係だけです。そして他人がいる事そ の物が奇跡であるなら、他人が力を得たとしても問題はまったくありません。 というか奇跡を信じるならば当然そのような事になるのだと思います。

そしてわたしには力などは不要だという事です。単に最大限他者が関係を構築 できるように考慮しながら物事をやれば良いのだという事に気づきました。と いうかいままでもそうやって来たはずなのです。

ただ、今までは他者と他者との関係という部分にあまり注目せず、単に他者に 利用しやすい物を公開するという事に主眼があったようです。

これは他者と自己との関係のみにしか注目していない行動です。他者と他者が 出あうという奇跡をあまり考慮していなかった。

他者と他者との出会いの権限は他者にある。当然それをわたしがどうこうでき るわけではない。でも他者と他者をより出あう機会を高めるようにはできるの ではないか、そこに奇跡が産まれ続けるのではないかと思うのです。わたしに とっての利益は単にちょっとした関係が得られるだけで満足なのです。それさ えあれば十分に利益です。

他者と他者との出会いで利益を得るのは他者でありわたしには利益はないです が、そんな事はどうでも良い。

わたしにとっては世界が本当に奇跡でできている事を知る事ができるのが楽し いのです。その奇跡の全体でなくてもごく一部に触れるだけで良い。

自己への盲目をとりさるためにしばらく連続的に日記を記述しようと思います。

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実力とは何か

力が関係であるなら実力があるとは関係を築く力があるという意味と取れます。 これは正しいでしょうか?おそらく力を関係とした場合は正しいのでしょう。

たとえばプログラミングの能力にしてもそれによって関係が構築されるなら実 力と言えるでしょう。単に人を寄せつけない方向になり関係が構築されないな らそのプログラミング能力はあってもだれにも評価されませんし、価値が判断 される事もありせん。そもそも本当に力があるか誰にもわかりません。

本人は力があるつもりだったとしても、評価を受けていない力は本当の力なの かどうやってわかるのでしょうか。

関係は力を産みます。力は別の関係を産みます。そこには関係の変換、力の変 換が存在します。関係が増加すればするほど関係は複雑になります。関係の複 雑さは加算ではありません、乗算となるはずです。関係が増加すれば増加する ほど乗算の効果は高くなります。力が関係だとすれば力もやはり乗算となるの でしょう。

関係と力が乗算であるなら、関係を一つ失なう事がどれほど意味がある事かわ かるかもしれません。

実力とは何かという問いに回答するには力が何に基くものかを理解していない とならないのでしょう。

わたしにとっての実力とは最終的に関係を築く力という事になります。現状わ たしには実力はないのでしょう。わたしは力なき人間です。

力がない場合は他の人が関係を築きやすい環境を作成すべきなのだと思います。 わたしが関係を築けないとなれば、関係を築ける人を捜すしかないのかもしれ ません。

その人が力をつまり関係を増加させる基盤を作成し、いずれわたしの保持する 関係をわたせれば良いのでしょう。

わたしは捜す人となるべきか。捜す能力はあるのだろうか。わたしに足りない 能力を持つ人を捜すにはどうすれば良いのか。捜すとは本質的にどういった事 なのか。考えてみたい。

わかった!力なんて不要なんだよ

ここ数日書いた日記を読みかえしてみてわかった事がある。力なんて不要なん だ!

そうなんだよ、不要なのだよ。わたしに力がないのは悪い事ではない。単に力 がない事を表明しない事が問題なのだ。捜すのがわたしである必要なんてない じゃん。関係を構築するのもわたし自身でなくても良いじゃん。

わたし自身が力を持つ必要なんてないのだよ。他人が力をもったっていいのだよ。 それもわたしの関係の一つだろ?わたしの必要とする関係は得られるし、力は わたしがもたない事になる。

力がないなら無いっていう。かくさない。嘘ついても無意味。

ああ、なんかすっきりした。でもこれだと他人に意味わからんわな。自分でも 後日読んで意味不明だと思うし。

もうちょっと言葉として意味ある物にしよう。

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本当に望む事は阻止できない

関係は力です。またその力を新たな関係の構築に利用する事ができます。では 力を得ていったいどうしたいのでしょうか。力を得る事その物が望みなのでしょ うか。

本当に望んでいる事がわからないなら、それは阻止可能なのです。

力などは実際は付随する物です。わたしの場合は関係の方が重要です。そして 関係から得られる経験を重要視します。関係だけを望み力を拒否する事が不可 能だと言う事がわかっています。だから、わたしは関係から産まれる力を拒否 しません。またその力を新な関係を作成する事に利用する事を悪い事だとも思っ ていません。

関係から得られる経験というのは他人が他人であるという奇跡の体験です。当 然である事が当然である事に気づくのがいかに困難であるかを教えてくれます。

人は本当に経験した事しか実際には覚える事ができないのだと思います。しか し、関係によって間接的に多様な経験を得る事ができるのです。わたしには現 実の認識が必要です。

わたしの本当の望みはルール(規則)のないゲーム(現実)をプレイ(実践)できる 人間になる事です。

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