何を教えれば良いか
新人に教育をする事がありますが、何を教えれば良いのか困る事があります。
いわゆる構造主義における<構造>のような物、ウィトゲンシュタインの言う語 り得ぬ物を教えれば良いわけですが、それは多数の実践の上に成立しています。
変な例えですが、「将棋の駒の置物」を例にしてみます。
将棋の駒の置物に何の価値があるのでしょうか?将棋を知らない人には何の価 値もないはずですし、意味さえ不明です。はっきりいって塵以外の何者でもあ りません。
でも将棋を知っている人にとっては意味がわかるはずです。まして将棋をやっ た事がある人ならなおさら意味が分るはずです。
さらにその置物が将棋大会のトロフィーだったりしたら、それを持つ人にとっ ても意味は大変な物かもしれません。
であなたが、将棋大会で優勝してトロフィーとして将棋の駒の置物をもらった とします。邪魔だと思うかもしれないですけど、一つの功績の印です。
人に自慢するとしてどう説明するのか。その相手が将棋知らない場合。知って いる場合。やった事のある場合。同じ大会に出た人の場合。それぞれで既知の 構造が違うはずです。
ぼくが人に物を教える場合、ほとんどの場合相手はこの例で言う「将棋知らな い場合」にあたります。
もっとひどくて、日本にゲームがある事を知らない場合や、さらにひどくて、 木材の存在を知らない場合もあります。
将棋の駒の置物が木材でできているなら、木材に関して既知にそれが世界でど のような位置を占めているかを知らなければなりません。
でなければ、なぜ木材でできているのかを説明しなければいけません。
本当に相手が無知であると絶望感さえも発生しません。どこから教えれば良い のかまったくわからないのです。すでにとらえている構造そのものがまったく 違うのです。
これはぼく自身にも言える事です。自分の構造がすでに問題だと言う事。