< 2004年12月 >
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ITmediaニュース:「ThinkPadは変わらない」――IBM内藤フェロー

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0412/17/news045.html

あんまりコメントしてないけど。

> AV機能搭載も?

この発言の時点でもう終わりです。

宗教の克服

最近自分の宗教に関して直接書く事をしなくなっていたけど、なんとなく書き たくなったので書いてみる。

ぼくの信仰している宗教は布教には条件がありまた普通の方法では布教不可能 である事が定義されています。その内容を布教禁止事項としてぼくは認識して います。なぜなら現在ではその布教条件がかなり困難だからです。ぼくの時は 偶然布教可能条件をそろえる事が可能だったのですが、いつも揃えるのは結構 大変だと思います。この方法が規定されているかぎりそうとう社会に変化がな いかぎりこの宗教は今世紀中にはほろびます。

そもそもこの宗教、宗教の存在その物を方便としてあつかいます。よってこの 宗教の存在しない世界を明確に目指します。他の宗教の存在は問題ないようで す。というか他の宗教を考慮してないようです。

しかしこの宗教なしでは生きる事が困難な人達がいたからこそこの宗教が産ま れ、連綿と伝えられて来ました。ぼくもこの宗教が必要な人間の一人です。

ぼくがこの宗教を布教をされたのはそうとう小さい頃です。宗教の意味なんて 分らない、しかも親とか知らない所で無関係に布教されています。

そして自分で自分がこの宗教が必要な人間なんだと気付いたのは大学の時とい う。

この宗教は宗教を信じる事を強制しません。しかし、布教条件をそろえる人と いうのはそもそもこの宗教がないと生きていけない可能性を持つ人です。

この宗教が発生した地域で生れた人はほとんどの場合この布教条件を満したの でしょう。というか逆で、現実に合せてこの規定が作成されたのでしょう。戦 後その地域は開発され、元いた住民はほぼいなくなっているはずです。そして この宗教の必要性は失しなわれたはずなのです。しかしその地域とは本来無関 係なぼくには必要だったのです。

この宗教はその根本思想を含めほぼ口伝です。根本思想以外は時代に合せて変 化して来ているように見えます。根本思想はそうとう古いようですが、発生当 時のままである事は文献などからほぼ確実なようです。

この根本思想がぼくに思考する事を求めます。ぼくにとって最大の謎だからです。

この謎がわかった時ぼくはこの宗教無しで生きられるようになると思います。 それがぼくの望みです。

いつかこの宗教を必要とせず生きられる事を望む。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
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体調不良だと気持も低下

ちょっと体調悪いかも。気分が良くなくなるのはちと問題。

HNFにASINコマンド付加してみる

ASIN 4582852297 人格障害の時代

でリンクになるようにしてみた。LINKコマンドを拡張しただけ。LINK ASIN:xxx でやる手もあったけど、後で拡張しやすいように独自コマンド定義してみた。

package HNS::Hnf::Command::ASIN;
use vars qw(@ISA $ Template $ EndTemplate $ NumAttr $ IsOneline $ AllowCommands $ IsBeginSection $ CountName $ OmittableEnd);
@ISA = qw(HNS::Hnf::Command::Link HNS::Hnf::Command::ConvUrl);
 = qq(<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/%1/sakito-22">
<img src="/img/amazon.png">%content(AA)</a>\n);
 = 1;
sub AsHTML ($$$) {
my ($ self, $ start, $ params) = @_;
->ConvUrl();
->SUPER::AsHTML($ start, $ params);
}

みたいなのを追加しただけ。以下のように出ます。

人格障害の時代

あとでLASINとか追加して画像でるのとかも作成するかも。

あとBookmarkletは以下。Bookmarkに登録する時は一行にしてください。

javascript:(function(){var u=document.location.href;var ai=u.indexOf('ASIN'); var asin=u.substring(ai+5,ai+15);var t=document.title;var ti=t.indexOf(':'); var title=t.substring(ti+2);var link ='ASIN ' + asin + ' ' +  title;void(prompt('',link));})()
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関係と構造

関係と構造は異なります。構造というのは構築された物を指します。いわゆる 橋に対する橋梁と言うべき物が想定されています。構造を見るというのは橋は 橋梁によって規定されているので橋梁の構造を見る事で判別できる、それも各 種橋の橋梁を比較すれば一つの橋の特徴を明確に定義できるという物です。

この見方は人工物等の非自然な物を見るにはたしかに有効ですがプラトニズム にすぎると思います。

プラトニズムは論理や真理といった物は自然的な物とは別個に存在する、とい う事を基本とする態度です。この態度は科学研究態度として一定の評価は受け られる物ですが、本当の自然を知るには無力な場合があります。

いかに構造が把握できても真実がわからないと人間が感じるからです。それは 橋の美しさの本当の所はその構造のみで成立するわけではないからです。たし かに構造である程度の美を規定する事は可能ですが、それで全てではありませ ん。なぜなら美を規定するのは人間だからです。

構造を美としたとしても永遠不変にそれが美なわけではありませんし、絶対の 美でもありません。

もっと複雑な物のように思います。しかしその複雑な物をどう語れば適切に語 る事が可能なのか、が課題です。

関係の記述には関係を直接記述してはならないのかもしれない。

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関係の爆発

人格障害の時代

という書籍がありますが実際に時代によって人格障害が多いという事があるの でしょうか。そもそも人格障害とは何を視点としているのでしょうか。

わたしは物事を見る時あまり心理学的な見方をしないように努力します。でき るだけ論理的な見方をします。心理学的見方というのは、それは人の心理によっ て物事が発生しているという心理中心的な物の見方です。わたしは世の中は心 理で発生する事もありますが、その心理その物がなんらかの論理の上に立って 発生していると見るようにしています。

まず時代によって人格障害が増加したりするかと言えば、そうではないでしょ う。近年人格障害に関する臨床的検査方式が確立されて来たため人格障害の診 断を行なえるようになっていますが、別に時代だからというわけではないよう に思います。

時代によって人格障害が多いと言うなら、幕末から明治維新、第二次世界大戦 後などだって人格障害は多かったのです。

わたしは時代によって人格障害が増えるというよりも、関係が急激に変化する 時にそれが単に顕在化しやすいというだけに思えます。

あまり人間が移動しなかった時代、閉塞した地域で生活していると、人は習慣 からある一定の規則を形成し、それに自然に従いました。なぜならその方が地 域社会で生きていくのが楽になるからです。ある程度人数が固定され、風土も 固定されている場合、その規則は一定の方向に比較的急速に収束する事が知ら れています。人は関係の流動は無駄を発生されるため避けられたのです。

地域には暗黙の規則、そこに生活していれば誰しも当然の規則が形成されて行 くのが普通でした。その中から外部からの流入者を拒否する雰囲気が形成され たりしました。

しかし、規則が固定化されすぎるとまた問題が発生したようです。これは関係 の流動がない事から生じる地域の発展の阻害です。この障害を除去するために 蛭子信仰や外来神信仰があり、時に積極的に外部から財を招く事をしました。

注目すべき点は関係が流動しない限り、暗黙の規則が異常に見える事はほとん どないと言う事です。また産まれた時からその暗黙の規則に従ずには地域で生 活が不能なため、ほぼ必ず暗黙の規則をごく小さい頃に覚える物でした。

しかし、現在はそのような暗黙の規則が形成されずらい時代になっています。 情報が流動する事により否応もなく関係が形成されるからです。関係の制御が 主体的にできなくなっています。

これが関係の爆発です。

関係が爆発すると何が規則かを学べる機会が減ります。それは多様性の時代と 見える場合もありますが、元より人は多様なのであって、今に多様性がはじまっ たわけではありません。たんに多様な物との関係をあまりに容易に構築できる ようになった、それも制御できない、という部分に問題があるように思います。

人格の障害と見える人も規則が明確であればそれに従えるのです。人は規則が あればそこからはずれるのを恐れる物です。

暗黙の規則が学べない場合、その規則がない。従うべき規則がない場合、自分 の自然感情に従う事になりますが「感情」という物に慣れていない人間が結構 いるというのも問題です。感情もまた関係の中で学ぶ物だからです。

現在の問題は緊密な関係の構築の不可能性と、疎遠すぎる関係を制御できない 事に問題がある、とわたしは思います。

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意識の拡散、残留思想と言語および思考との関連性はあるか

穢の概念。遺品。清い土地。土地神。外に出ても地元の土に影響される。

意識の拡散、残留思想というのが確かにある。これは言語との関連性があるの か。思考に影響を与えているのか。

問題設定能力

意識の拡散的な問題はわたしに知識が足りないので保留。ただこれを考えてい る時問題設定能力に関して考慮する必要があるように感じた。

問題の設定とは問題を見つける能力でもあり、既存にある問題を切り分ける能 力でもあります。問題の解決には問題を見つけ設定する必要があるのは当然です。

わたしが今最大の問題としているのは関係をいかにすれば論理的に語れるのか、 という事です。関係の概念は複雑で一つの面からでは決して語る事ができませ ん。よって分割して語るしかないです。分割するには分割する観点が必要です。 それが問題の設定能力です。

以前この日記で「コンピュータは人間を越えるか」という問題を立て思考して みましたが、あまり良い問いではなかったようです。うまく関係に関して語る 事ができていません。ただその結果において言語に関する思考は関係を語る上 で重要なようだというのは分りました。

また言語だけでは関係を十分に語れない事もわかりました。

問題を設定する能力は考える力その物といっても過言ではないようです。考え る力が弱いのであればもう少し簡易な問題で練習する必要があるかもしれませ ん。

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著作権で時に問題になるいろいろな事

他者が自分の作成した物からアイデアを得て利益を得た所で何が問題なのでしょ うか。何の問題ないと思います。

それが完全な盗作である場合は問題ですが、何かから発想を得るというだけな ら別に著作権にも違反しません。

人が苦労して作成したバラ園を見て「バラ」という演劇を苦労して作成した所 でなんだと言うのでしょうか。

しかし、ここに時には難しい問題が潜むようです。

関係とは時に難しい問題を含みます。狭量と呼ばれたり、自閉症的と呼ばれた り、自己の永久延長意識と呼ばれたりする思考がその一つです。

自閉症的症状の一つに自己の歩いた道思考というのがあります。これは自分が 歩いた道には標(しるし)が残るという思考です。この症状を持つ人は一度歩い た道を特別視します。家から出て目的地に行くのに病的に同じ道をたどろうと したりします。またしるしを他者に踏まれるのを嫌い他者をそこを歩けなくし たり、しるしを拝む事を他者に強要したりします。

この例は病的になった場合の例ですが、人間には普遍的にこのような思考があ るようです。これは自分からの影響は自己の延長であるような錯覚としての思 考です。

バラ園を見て「バラ」という演劇を作成したら、著作権違反だ、と叫ぶ人が実 際にいるのです。悲劇と言えましょうか。

これが著作権関連のナイーブな問題になっている場合が度々あるようです。

ただどこからが盗作でどこからがオリジナルかを判別するのが微妙な場合は確 かにあります。

実際の所本当にオリジナルなアイデアなどは存在しえません。それはアリスト テレスの時代からそうなのです。

では何がそれを分けるのか。もしくは分ける事は可能なのか。

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思考課題

本当は思考よりも実践の方が先の方が良いのだが、わたしはそうもいかないよ うだ。

  • 命名する力
  • 極大な言語
  • 「皆」を見出す
  • ルールのみからルールが作成できるのか
  • 関係にはまだ人が知らない問題が存在するがそれをどう記述するか
  • 精神論なんて無意味
  • 関係を円滑にするには関係を考えない事

実践があれば言葉なんて不要なんでしょうが。

断片メモ

生きるとは生きる事の練習であり生きる事その物である。

実践から言葉への飛躍は大きい。また言葉から実践への飛躍は大きい。

生きるとは信仰その物であり、祈りである。

生きる事を信仰としなければいけないほど生き難いとも言える。

哲学もしくは宗教などにより真実を追い求める人には欠陥がある。その欠陥の ために真実を求める。その欠陥のために真実に近づく事はあっても真実を生き る事ができない。

哲学や宗教を必要としない人は真実を生きている。よって真実を求める事はな い。そのため真実は記述される事はない。

よって永遠に真実は記述されない。

真実を求める姿は鳥のように飛びたいと望むのに似ている。もし鳥のように飛 べているなら、そうは望まないであろうように似ている。

哲学や宗教に関して語る場合の基本ルール

  • 周辺解説書を幅広く偏りなく読む
  • 著者の原書もしくは原書の翻訳を読む
  • 自分の言葉で表現するように勤める
  • そのままでの引用や解説はしない

命名する力と極大の言語

極大もしくは最強の言語という概念が言語学方面にはあります。極大言語とい うのは全てをそれで記述可能な言語の事です。

まずは現状の言語が極大言語でないか、という問いであれば、極大言語でしょ うね。もし今の言語から極大言語が作成可能なら今の言語はすでに極大言語で すし。作成できないなら、人間は言語でこんな複雑な事できてません。

人は昔から極大な言語が自分達の言語とは別にあると考えて来た節があります。 それは魔法使いが呪文を唱えると魔法が発動したり、言葉で呪ったり、祝った り。そのだいたいが外国語だったり失なわれたとされる言語だったりする事で もわかります。

ただ、発音できて意味理解できるって時点でそれは自分達の言語なんです。

appleがリンゴって意味っていうのではなくappleはapple。これは英語ですが、 それを正しく利用できるという事で自分の言語です。「わたしの言語」です。

極大言語である証明は命名する力によっても可能です。人間の言語はあらゆる 事に命名する事が可能です。

たとえば言語化できないある思考に「B」という名前を与える事もできます。意 味不明の事にとりあえず「意味不明のJ」と名前を付与できます。

また名前だけでなく感嘆符の付与など対象に対してあらゆる操作が可能です。

わたしは人間は極大言語を得たから思考を得たという説を取る事にします。

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コンピュータは何度も人間を越える -- 厳密性批判

コンピュータは何度も人間を越えています。いままで何度「コンピュータが人 間を越えた」と言われて来たのでしょうか。チェスでコンピュータが人間に勝 つ前にも「コンピュータが人間を越えた」と言われた瞬間は何度もあったし、 今後も何度もあるはずです。

しかし通常「越えた」という事象は一回しか発生しないのではないのではない か、それは実は越えたのではないので誤用だ、と言うのでしょうか。

実際の利用で「越えた」と利用されています。実際の利用が本質です。であれ ば「越えた」という単語はなんらかの制限を越えた場合に利用される習慣を持 つだけにすぎません。

よってコンピュータは人間を越えます、それも何度となく。

「彼は午後6時に帰宅した。」さて彼が帰宅したのは何時でしょうか?

当然6時?いいえ、彼は本当は5時57分に帰宅したので5時です。これは屁理屈で すが実際の言葉の運用では6時で問題ありません。

ここには厳密性の問題があるようです。厳密性を避けるための理論等がありま すが、これさえも厳密性の中に立っています。

人間の思考は厳密性の中で行なわれているのでしょうか。近年の脳科学の分野 では人間の思考が厳密性の中で行なわれていないのではないかとされる説もあ るようです。

厳密性がない場合、それは計算的でないという事です。計算にできないのなら ば、その思考はコンピュータには不可能でしょう。

今問うているのはコンピュータは思考可能か、という問いになっています。

人間の脳の計算速度は2 * 10^16 cpsと算出できる、という説を一回目に紹介し ました。この計算速度を越えた時、本当にコンピュータは自ら思考するように なるのでしょうか?自ら思考するとは、チェスをする事しかプログラムされて いないコンピュータが囲碁や将棋に興味を持ち、それを始めた場合等を指しま す。

わたしは計算速度と自ら思考する事に大きな飛躍があるのではないかと思いま す。計算速度だけでは思考とは違うのです。2 * 10^16 cpsを越える前に思考が 可能になるかもしれないし、越えてもなお思考が不可能かもしれません。

思考できないのならば厳密な意味でコンピュータは人間を越えられません。い つまでも人間がプログラムしてあげる事になり、後は人間の思考の限界により その限界が設定されるに留まります。

「コンピュータが人間を越える」の定義を「人間の思考の限界からの離脱」と 定義し、コンピュータが人間を越える事ができるのか、と問うと可能かどうか は良くわかりません。

この定義で実際に越えた場合、人間はコンピュータの思考を理解不可能になら ねばなりません。なぜなら人間には思考できぬ事を思考する存在になるからで す。

いつかその日が訪ずれるのでしょうか。

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文、および言語と思考

「コンピュータは人間を越えている」

「ライオンは人間を越えている」

「北島康介は人間を越えている」

上記の命題全てYesと回答する人がいても異常とは思いません。ごく普通の会話 でありえるはずです。

ここでは「越えている(x)」という公式のxに名詞を入れているだけですがxによ り越えているの意味が変化しているのでしょうか。

実際には意味が変化しているのではありません。文が違います。越えるの意味 は変化しているわけではありません。

文の分析が意味を成さない事がわかります。文解析をして分割しても実際は意 味がわからない事を表わします。

「コンピュータは人間に勝った」

「核兵器は人間に勝った」

普通下の文はおかしいでしょう。

「コンピュータは人間に勝った」も実はおかしいのかもしれません。それは単 にコンピュータをプログラムした人達が勝ったと見るのが正常なのかもしれま せん。しかし「コンピュータは人間に勝った」という文を異常には感じません。

これはいつのまにか人が「コンピュータは人間に勝った」という文の利用方法 を覚えたという事です。

「コンピュータは人間を越えている」という文にしても人はやがてその文の利 用方法を覚えるはずです。いやすでに覚えたのかもしれません。この文の利用 方法を覚えた場合、この文は言葉として発っせられる機会は非常に少なくなる はずです。

「コンピュータは人間を越えている」を前提として思考が行なわれる事になる からです。

コンピュータはまだ人の計算速度においついていません。店のレジで人の代り もできません。しかし「コンピュータは人間を越えている」という文は会話で 普通に利用できますし、意思が通じるはずです。人は「コンピュータは人間を 越えている」という文をそういう意味に利用するようになったのです。

その意味で「コンピュータは人間を越えている」という文はすでに正しく完全 です。

これは言語が不完全であり、本当に伝えたい事が伝えられないからこうなるの ではありません。言語は完全なのです。言語はその文だけから成立しているわ けではなくあまりに多くの前提から成立している事を忘れてはいけません。

「コンピュータは人間を越えるか」という問いは問いとして意味がなくなって きています。なぜなら人は「コンピュータは人間を越えるか」にYesと回答する 割合が多くなってきているからです。やがてこの問いその物を発っする事が 「わたしには手をがある事を知っている」という文と同じあつかいになる日が きます。コンピュータは人間を越えた事を前提として思考が行なわれる日が来 るのです。しかしその日が来ても、コンピュータは人間の代りをまだしていな いでしょう。

「コンピュータは人間を越えるか」という文は変化しませんが、そこに含まれ る物は変化していきます。それは人とコンピュータとの関係の変化です。

人はコンピュータに慣れていきます。コンピュータもまた変化していきます。 その関係の中で「コンピュータは人間を越えるか」という文は否応なく変化を 強いられるのです。

この問いが問われなくなった時、コンピュータは人間を越えたと言えます。そ の日はいずれきます。

「コンピュータは人間を越えるか」という問いは本当は無意味です。「コンピュー タは人間を越た」からです。「コンピュータは人間を越た」事は人間の代りを できるようになった事を意味しません。「コンピュータは人間を越た」とは何 かの説明を求めた時の回答の仕方によって越えたのです。

文とは関係です。言葉とは関係です。思考とは関係です。その関係はいつのま にか覚える物です。いつそうなったのかはわかりません。

ただわたしたちはそこから逃れる事はできない。

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チェスの例

コンピュータは人間を越えるかという問題において良く例に出されるのはチェ スの例です。

これは1997年に行なわれたディープ・ブルーとカスパロフ氏のチェスの試合を 知っている人が多いためでしょう。この試合においてカスパロフ氏はディープ・ ブルーに破れました。

これをもってコンピュータは人間を越えたと言えるのでしょうか?

当時の記事をいくつか検索すると越えたと言う人と越えていないと言う人の両 者いる事がすぐにわかります。そして両者ともその結論は論理的でない場合が 多いように見えます。

コンピュータは人間を越えるはずがないから越えていない理由を捜していたり、 コンピュータは人間を越えるはずなので越えたとしていたりしています。

まずわたし立場を表明すれば、わたしの本当の目的はコンピュータは人間を越 えるかを知りたいのではないのでどちらでも良いという立場です。結論がどち らかでなければならないという立場ではありません。結果的にどちらかになっ ても良いです。その先を考えるためにこの思考が良い例であると思うので利用 しているだけです。

まず論理的に考えてみましょう。ここでは論理的とは式の成立が可能である事 を意味するとしておきます。

「チェスの試合でコンピュータが人間に勝った事はコンピュータが人間を越え た事を意味する」(命題1)という論理命題は式にすると以下のようになります。

「チェスの試合でコンピュータが人間に勝った = コンピュータが人間を越えた」(1の式)

この命題は成立するでしょうか。

この命題が成立すると以下の文が正しい事になります。

「コンピュータが人間を越えるとはチェスの試合でコンピュータが人間に勝つ事である」(命題2)

正しいですか?

では以下の式は正しいですか?

「チェスの試合でコンピュータが人間に勝った ⊂ コンピュータが人間を越え た」(⊂は左が右に含まれるの意味)

これが成立すると以下の文が正しい事になります。

「コンピュータが人間を越えるとはチェスの試合でコンピュータが人間に勝つ事も含む」(命題3)

正しいですか?

わたしは命題2も命題3も誤りのように感じます。なぜ誤りなのかと言えば、チェ スの試合で勝ったからといって人間を越えたとはまだ言えないからです。また チェスの試合で勝てなくても人間を越える事はできます。(越えるという語の意 味に関してはここでは曖昧な事を注意せよ)。命題2も命題3も絶対的な真ではな い事は確かです。

であれば命題1も誤りでしょうか。しかし全命題は利用を限定すれば正しいよう に感じます。利用の限定とはたとえば、命題2の場合はチェスに関して話してい る時前提に暗黙に「チェスで」という語が付く場合は正でしょう。

「コンピュータが(チェスで)人間を越えるとはチェスの試合でコンピュータが 人間に勝つ事である」(命題2の変形)

これは明らかすぎる場合は語が省略されるという習慣に過ぎません。

1の式と命題2の意味が違うようです。これは式の立て方がおかしいのでしょう か?そもそも式にする事がおかしいのでしょうか。

式にした瞬間に別の意味になっている、と感じるのが普通の感覚だと思います。

では命題1を語った時わたしはその命題の意味を理解していなかったのでしょう か。わたしはわたしの語った意味などまったく知らなかったのでしょうか。ま たこの命題は式にできないのでしょうか。もしくは本当は言語化できない思考 でしょうか。

どこかに矛盾があるようです。さてどこでしょうか。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
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