< 2004年11月 >
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本当に望む事は阻止できない

関係は力です。またその力を新たな関係の構築に利用する事ができます。では 力を得ていったいどうしたいのでしょうか。力を得る事その物が望みなのでしょ うか。

本当に望んでいる事がわからないなら、それは阻止可能なのです。

力などは実際は付随する物です。わたしの場合は関係の方が重要です。そして 関係から得られる経験を重要視します。関係だけを望み力を拒否する事が不可 能だと言う事がわかっています。だから、わたしは関係から産まれる力を拒否 しません。またその力を新な関係を作成する事に利用する事を悪い事だとも思っ ていません。

関係から得られる経験というのは他人が他人であるという奇跡の体験です。当 然である事が当然である事に気づくのがいかに困難であるかを教えてくれます。

人は本当に経験した事しか実際には覚える事ができないのだと思います。しか し、関係によって間接的に多様な経験を得る事ができるのです。わたしには現 実の認識が必要です。

わたしの本当の望みはルール(規則)のないゲーム(現実)をプレイ(実践)できる 人間になる事です。

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関係と力

力というのは関係によって発生する物です。よって関係が変化すると力が強まっ たり弱まったりします。

関係の変化は例えば地位が変化したり、環境が変化した時に発生します。

関係の変化があったのに、同じように同じ力があると誤解すると問題が発生す る事になります。

力が関係である事は忘れるべきではないと思います。

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権力とか管理という単語

わたしの交友関係の狭さのせいかもしれませんが、教育関係者や研究系の方に は権力とか管理という単語に拒否反応を示す方がいるように感じます。おそら く偏見なのかもしれません。必ずしもそういう方達に限った事でもないような 気もするからです。単に目立つ場合があるのかもしれません。

ただ、どうも高度に教育を受けた方は左翼的というかリベラル的に感じられる であろう発言を好む傾向があるのかもしれないと思う事があります。

権力とか管理とは近代化に必須の物でした。権力とか管理がない世界がいかに 野蛮な世界であったかは歴史を学べばすぐにわかります。

管理は自由を保護するには必須です。また権力も同じくらいに重要です。

管理なき自由はありえませんし、権力なき秩序もありえません。

ですから本当にリベラルであるなら権力や管理に対して真剣に考慮すべきだと 思います。単に避けるのは愚かな行為だと思うのです。

権力と管理は必須ですが、支配は不要です。支配すると効率がわるくなります。 考える個人の方が自由に動作してくれる分効率が良いのです。

人間は個人が別の人である事に価値があります。そしてそれは奇跡なのです。

奇跡を信じてみるのが良いと思います。

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大日本日記教教義

これはJokeです。内容を本気にしないように。極端に書いています。Jokeが下 手なので練習。

大日本日記教の教義。

毎日5分かならず日記を書く事。

5分以上無理に書こうとするな、ただし最低は5分。

日記は個人的な事を書く事。

出来事、反応、わかった事を書くようにする事。

一日5分程度も日記にさく事ができないなら自分の時間を管理できない。

書く事がないのはその日が無為にすごされたという事。

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権力とは何か

権力はどこでいつ発生するのでしょうか。それにはまず「権力」とはどういった意 味かを定義しないと議論にならないでしょう。

ぼくは「権力」という単語を「他人の運命を変える力」と定義しています。と いってもそれほど大きな物を考えているわけではありません。例えば、Webサイ トを開設した場合、そこに自分以外の閲覧者が一人でもいればその人の時間を 数分でも奪った事になります。これは十分他人の運命を変えています。

大きな権力というのはそれだけ多くの他人の運命を変える力となります。

上記の意味で権力という単語を利用した場合、例えばソフトウェアを公開し、 それに利用者がいれば、開発者は権力を保持した事になります。そう、ソフト ウェア開発者は利用者にとっての権力者なのです。それもソフトウェアによっ ては比較的大きな権力を持つ可能性があります。

たとえばgcc。gccの権力は大きいです。もしgccが仕様を変更してgccに対応し ているソースが変更をしなければいけない事になった場合、それを利用してい る人への影響はどれほどでしょうか。

ありえないでしょうが、gccはある特定の物を完全に排除する事も可能です。 「他人の運命を変える力」があります。

gccほど大きくなくても、ソフトウェアを公開配布し、それに利用者がいる場合、 多かれ少なかれ権力を保持する事になってしまいます。それは拒否できません。

権力がなければ利用者を幸福にする事ができません。より多くの人を幸福にす るのもまた権力なのです。権力は他人を不幸にするだけではないのです。

他人を本当に幸福にしたければ、権力の保持を躊躇できません。また自分を幸 福にしたい場合も権力を持つ事が良い事が多いでしょう。

権力はどうやれば人に幸福をもたらせるのでしょうか。まずなぜ権力が人に不 幸をもたらすのかを考える必要があるかもしれません。

権力が不幸をもたらすのは、権力者が自分が権力を保持している事に無自覚で あったり、権力の大きさを認識していなかったり、権力の意味を知らない場合 に発生します。

権力者は自分が権力者であり、自分の権力がどこまでおよんでしまうのかを注 意しなければいけません。自分の権力がいかに他人の運命を翻弄してしまうか を自覚すべきです。

この時さらに気づくべきは、権力の根源が利用者にあるという事です。利用者 がまったくいない場合には権力はなくなります。そこには「他人」がいないか らです

自分が権力者である自覚、その権力の根源は他人にある事の自覚。そうした諸々 の事が自覚できて始めて他人を幸福にでき、また自分を幸福にする事ができる のです。他人と自分を幸福にしたければ、権力の行使を躊躇すべきではありま せん。

権力というのはそういう物です。

たとえ権力の自覚があっても、権力は腐敗します。腐敗を防止する対策をすべ きです。また腐敗してしまった場合、利用者が権力者を権力の座から追い落す 方法を権力者自身が用意すべきです。

ソフトウェアの場合は、開発物をこの世から完全に消す方法はないので、代替 の開発物を開発する事でしか権力をうばう方法が現在は考えられていないよう です。

たとえば、gccはGPLです。その権力を受ける側が権力に対抗するすべを自ら用 意しています。権力者から権力をうばう方法を権力者自身が公開しているので す。GPLであれば、利用者がgccに不満があれば、別の実装が可能になります。 別の実装の方がより利用者が増えれば、gccの権力はなくなります。

GPLだけでなく、BSDライセンスにしてもソフトウェアライセンスとはそういっ た部分を考慮している場合が多いのです。

権力の腐敗を防止する良い方法は、権力を分散可能にする事と、権力の影響範 囲を明確に限定する事です。

権力を分散するとは、一人もしくは一つの物が他人の運命を変える可能性を少 なくするという事です。共同にするとか実装を複数にするとか方法はいろいろ あります。一点注意すべきは権力を分散しすぎると今度はまったく力が失しな われるという事です。その点を注意すれば問題は発生しずらくなります。

権力の影響範囲を明確にするとはソフトウェアライセンスのように、どこまで が許可される範囲かを示す事で可能です。この時極力曖昧性を排除する必要が あります。

権力を拒否する事は不可能です。隠者になろうとも、隠者になった事その物が 他人に影響を及ぼします。人がその場にいないという事さえも、影響になるの です。死してなお人は権力を保持します。

であればその権力を他人がそして自分がより幸福になる方向に利用した方が良 いのではないでしょうか。

これがぼくの権力の考え方です。

重要とは弱点と同義

会社でもユーザーグループでもある組織に属している場合、その組織で一番重 要な人の名前を上てください。その人がその組織での弱点です。

組織に属していないなら、時計とかエンジンとかでも同じです。一番重要と思 う場所が一番の弱点です。

これに無自覚な人が多いような気がします。

権力を保持した場合、権力者が最大の弱点になります。弱点は克服されるべき です。しかし弱点なきシステムは存在しません。であればどうすべきでしょう か。

弱点の分散は一つの手です。同じ意味で言えば重要さの分散は良い手です。

また、弱点に自分が弱点である事を自覚させるのも一つの手です。

弱点は自分が重要である事には気づく場合はよくありますが、弱点である事に 気づく事はまれです。なぜかと言えば、弱点は自分が見えない場合が多いから です。

弱点監視システムを用意する必要があるかもしれません。

問題は重要になれば重要になるほど、その重要な点はより強力な弱点となると いう事です。弱点に傷が付けばその弱点によって動作しているシステムが動作 不能になります。

重要になればなるほど弱くなるというのは注目すべき点です。また弱ければ弱 いほど重要であるという見方もできます。自然と弱い部品を傷つけないように より気をつける事になり、そうすると弱点がより重要になり、、、という悪循 環におちいる場合があります。

すくなともシステムの重要な点を挙げて、と問うたら数個の重要点が同時にで るぐらいでないとだめだと思います。その重要点に順位を付けるのが困難であ るぐらいで良いかもしれません。

自分がその組織で重要なのかもしれないと気がついたら、自分がその組織で弱 点にならない方法を考える義務が同時に発生したと思う必要があるという事を 自覚しておかないと危険かもしれません。

独り言とThinkingの違い

独り言は自閉的、Thinkingはより外部的。あまり違いがないので全部Thinking で行くのも手だ。

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宗教の信仰と神の信仰は別

ぼくは宗教を信仰しているが、神と呼ばれる存在をまったく信仰していない。 あまり理解している人は多くないようですが、宗教の信仰と神の信仰は別の物 なのです。

では「感謝します」と発言した場合、何もしくは何処に向けて発言しているの かという問いが出るかもしれません。これは単一の何かに向けてという事では ありません。

その事態その物へ感謝しているのです。

人は物事を単純に理解しようとする場合が多いようです。多神教であってもあ たかも一神教のように理解している人がいるのもその一例かもしれません。

一神教では神は唯一で他は精霊や天使であったりします。多神教を信仰してい る場合でも、いずれかの神が最高神で、他が一段低くなっているような理解を している人がおり、それでは一神教とあまり変りません。

最高神が唯一であるという一神教にすぎなくなってしまいます。

多神教とは等しく多くの神がいるという信仰なので、どの神が強いとか弱いと か、最高とか最低とかの区別がない物です。

ぼくの信仰する宗教には神とよばれる存在は規定されません。また支配的立場 や指導的立場に何者かが存在してもいません。等しく多くの事態があるという 事以外は何もないのです。

もっとも理解してほしい事は「中心」という思考がないという事です。宗教そ のものさえも中心ではありませんし、教義そのものにも中心がありません。ま してや中心的な立場もありえません。このあたりは真の理解に時間がかかりそ うです。

人は中心なく存在できるか

人は存在するのに中心は必要ありません。しかし中心を信じてしまう人が多い ように感じます。これを主人公主義とでも呼びましょうか。

小説にしても漫画にしても主人公の存在によって物語が存在しているという信 仰があるようです。物語はその構造上主人公を必要とする物です。主人公のな い物語はありえないでしょう。

しかしながら物語は本当は主人公など必要ではないのです。主人公なくしても 物語は成立します。物語そのものを語らないならば、主人公は不要なのです。 そして語らなくても物語はいまだ存在しているのです。

現実の世界は物語にはまだなっていません。そして語る事もしません。そこに は主人公はいないのです。自分が主人公ではないという事を認識すべきです。

物語は主人公を必要としますが、語らない事柄に主人公は不要です。いる方が 害です。

そこに中心はありません。中心がある方が害です。

しかし人が有能に働くには中心は不要ですが指針は必要です。スポーツであれ ばルールが必要です。

ルールなくしては、ゲームができません。そこでは人が中心なのでしょうか?

ぼくはゲームには実際は中心がないのだと思っています。中心ではなく別の物 があるのだと思います。さて、それはなんなのでしょうか。

中心は不要です。ただし時には中心を信仰してみたくなるかもしれません。気 をつけるべきです。

語る事は下品なのか

物語を語るという事が下品な行為であるという認識は必要かもしれません。し かし何かを語るためには物語は必要です。語るという事その物が実際は下品な 事なのでしょうが。

下品といいましたがなぜでしょう。もし或る種の人達に或る部屋の事がらを知 られたくない場合は、そこに鍵をかければ良いのです。そして部屋がある事、 鍵がかかっている事を語らなければ良いのです。語らずとも遠ざけようとした 人以外はその鍵を開ける方法を知っているのです。

鍵をかけた人物以外が部屋の場所を示し、鍵がかかっている事を教えるのは下 品ではないでしょうか。鍵をかけた人物が遠ざけた人を招く事になるのではな いでしょうか。

それよりも本来近づくべき人が、近づく時期を早めるという価値の方が高いと 思うのかもしれません。ぼくもそういう方向の人間です。

あえて語ってしまうのです。

しかし語る事が下品である事を認識しています。そして不正確にしか語れない 事を恥じます。

いつか必要な人が必要な時に思いだしてくれるなら、それで十分です。

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