< 2004年09月 >
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妖怪人間ベムは人間になれるのか part3

この日記は、 「 妖怪人間ベムは人間になれるのか

妖怪人間ベムは人間になれるのかPart2

の続きです。

問題を解決する事を考えてみます。

ベムが「人間になりたい」と言った時の人間を「*人間」と表現し、人間のA君 が「人間になりたい」と言った時の人間を「^人間」と表現すればこの問題は解 決するでしょうか?

しません。

par1を読めばわかるように、「人間」という語の意味は多様です。いや、この 書き方さえも誤謬を含む事がわかります。

「人間」という語の意味は、その使用その物であるからです。

記号を利用しても使用した事で意味となってしまうため、結局は問題が解決し ないのです。

ここに至り、「妖怪人間ベムは人間になれるのか」という問いが問いとしてな ぜ成立するのかが問題になっている事がわかると思います。

この問題をもし理解できた場合、世界が変化します。物の見方も変化する事でしょう。

やはりぼくは、ぼくのために「妖怪人間ベムは人間になれる」と回答すべきな のかもしれません。と結論しておきます。

この結論よりぼくは今は書けません。この問題に関しては継続して書いてみたいと思います。

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妖怪人間ベムは人間になれるのか part2

昨日記述した「 妖怪人間ベムは人間になれるのか 」には嘘というか間違いというかが意図的に含まれます。

普通の成人が読めば気づくでしょう。

それはベムが「人間になりたい」と言った時の「人間」と人間のA君が「人間に なりたい」と言った時の「人間」の意味内容が異なっているという事です。

これは普通に読めばわかるはずです。ではなぜわかるのでしょう?

説明しようとすればできます。ではその説明どうしてわかるのですか?

わたしが「妖怪人間ベムは人間になれない」と書いた場合、それは誤謬を含み ます。

「妖怪人間ベムは人間になれない」と書いた場合の「人間」と、「妖怪人間ベ ムは人間になれる」と書いた場合の「人間」は意味内容が異なる可能性がある からです。

わたしが「妖怪人間ベムは人間になれない」と書いた時、わたしは語をこのよ うに利用した場合は、まさにこのように「根拠なく」利用する、という事を宣 言しているにすぎません。

「妖怪人間ベムは人間になれるのか」という問いへ本当に正確に回答しようと した場合、「人間とはなんですか」という問いへの回答を必要とします。

また、この質問がそもそも意味がありますか?という問いも立てられます。

回答を書いた時点でほとんどの場合は誤謬を含みます。問いに正確に回答する には問いを立てるしか方法がない。

しかしこの回答は異常です。つまり回答を書けないといって回答を書いている。

ループしているわけではない。すすんでいないわけでもない。こういう地平が あります。

普通の人はこんな事を問題としません。自分の立てた問いは自分では回答でき る前提で問いを立てるのです。

そしてわたしも、ここではそうした問いへの回答の方法をしなければなりませ ん。

問いに回答せずに回答した瞬間、わたしは人間でありえるでしょうか。やはり 人間だとわたしは思います。

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sakitoの異常性に関する考察

sakitoは見る人によってはかなり異常であると見えるはずです。そして実際異 常ではあります。それがなぜなのかをここで考察したいと思います。

まず、人間が生きているという事はどういう事なのでしょうか?

もしどこかの世界に生きるという現象を知らない何者かが存在しており、その 何者かに我々が「生きる」という事を言葉だけで伝える事ができるのでしょうか。

普通、こういう事はおこりえないでしょう。その何物かも、われわれから見る と生きているように見えるはずです。

正常な成人であれば生きていると感じない対象に生きている事とは何かという 説明をしようとはしないのではないでしょうか。

われわれが「生きている」と定義する事柄はどういう事か彼等に説明したけれ ば、しばらく彼等と一緒に生活してみれば良いでしょう。彼等が「生きている」 を何と呼ぶのかわかるはずです。もしくは彼等はそういう事を呼称する事を必 要としない物なのかもしれません。とにかく共に生活すれば事柄その物は説明 は可能です。

さて、これは何をあらわすか。普通は行動をする事により、規則や定義やそう いった物がうまれるわけです。

しかし、sakitoはすでに規則をもっています。それは通常宗教と呼称される規 則です。まだ体験した事のない事、本当に行動した事がない事さえも規則とし てある、それが宗教という規則です。

あたかもそれはサッカーを一度も見たことがなく、やった事がない人間に、サッ カーのルールブックを渡してサッカーをやっていると信じさせるのと同じ行為 です。

捻れているとわかるはずです。これがわかるという事はあなたはそう生きてい るからです。だれにとってもあたりまえの事があたりまえとわかる。それはあ たりまえなのにもかかわらず、あたりまえでない事です。

宗教の悪はここにあります。

宗教の中には規則のために実際をまげる事を求める物もあります。

たとえば、今までサッカーをやり続け、称賛されていた人がいたとします。し かし彼はサッカー以外にこの世に球技がある事を知らなかったと仮定します。

ある日彼が球技しないか、とバスケにさそわれたとします。

普通の人であれば、バスケの簡易ルールを聞き、まずは一緒にゲームをしてみ るでしょう。最初は下手くそでしょうが、しばらく練習すればバスケができる ようになるはずです。

では彼がちょっと異常であった場合、周りの人間がバスケをしている中でサッ カーをやり続けるかもしれません。彼はいままでサッカーでのみ成功して来た 人間です。バスケを認めない、もしくは認識できないという事かもしれません が。これは異常ですが、時々あるかもしれません。本人はそれが異常である事 にあまり気づかない。

では彼がサッカー教の教徒であり、球技はすべてサッカーである、という教義 を持っていたとする。バスケ(いやサッカーに見えない球技)を始めた周囲に対し て怒りをもち、バスケをしている人にサッカーを教えはじめるでしょう。

一部の人はサッカーもいいかも、とサッカーをやりはじめます。それをサッカー 教徒は教義の承認と見ます。しかし、ほとんどの人はバスケをしたいわけです からバスケを続けます。サッカー教徒はサッカーをしない人を強く憎むでしょ う。サッカーをしない人を殺したいくらいに。

もし教義の中にそれを正当化する記述があれば、、

もしも長く規則を守るために行動をまげるという習慣を持ちつづけた場合、実 践を普通に見る事ができなくなります。

これがsakitoが異常に見える事がある原因です。

妖怪人間ベムは人間になれるのか

ぼくは実際にはこのマンガ一部しか見た事はありませんが内容を簡単に書くと、 妖怪人間ベムは妖怪で、人間に貢献すれば人間になれると信じています。

そして人間になるために、人間に貢献しつづけます。

詳細は 妖怪人間ベム

を御覧ください。

ではベムは人間になれるのでしょうか?これが今回の問いです。

なれない可能性が高い、と思うのが個人的な結論です。

ではなれない、と仮定した場合どういう点からなれないと思うのかを書いてみ ます。

そもそも人間になれるなら、人間になりたいと望む事がないのかもしれません。

これに反論する場合、たとえば、A君という人間が「人間になりたい」といって A君は人間だから人間になる事を望めなくはないという反論が考えられますが、 それは違います。

A君の言う人間とベムの言う人間は別なのではないかという疑いがここにありま す。

ベムは人間ではありません。では人間とはどういう物なのかをどう判断してい るのでしょう?

ではA君は人間とはどういう物なのかをどう判断しているのでしょう?

ベムがなりたい人間はA君が人間であるような人間なのでしょうか?A君は自分 の事を人間だとは思っていませんよ?「人間になりたい」と望んでいるのです から。

ではA君のようになってもそれは人間ではないでしょうか?

そもそもA君は人間ではないのでしょうか?

人間が持つ人間の概念は一致しているはずです。どんな人間でも普通の成人で あれば人間を判断できるはずです。

ぼくが「人間である」A君と書きました。「人間になりたい」とA君がいっても、 つまりA君が自分の事を人間だと思っていなくても、A君はぼくにとっては人間 です。

もしあなたがA君にあった事があるなら、人間だと判断する可能性が高いです。

ベムはベムにとって「人間になりたい」と「いわなくてすむ」所にいたれるの でしょうか?

ベムが今妖怪であるなら、それはありえない、というのがぼくの結論です。

ベムを人間であると万人が認めたとしても、ベムが「人間になりたい」といっ ていれば、それは人間ではないのでしょうか?

この場合はA君が人間であるようにベムも人間なのでしょうか?

この悲しさが理解できるなら、妖怪人間ベムがいかに悲しい物語であるか理解 できると思います。

そしてA君がいかに幸福な人間であるかわかると思います。

改訂

妖怪人間ベムは人間になれるのかを読んだ前提として、先日の宗教を持つにい たる道の改訂版を書いてみます。

A君は自分の事を人間だとは思っていません。A君の認識する人間と、一般に人 間だと判断される基準は違うようです。

もしA君が本気で、自分の事を人間だと思っていない場合、もしくは人間であり えるはずがないと認識していた場合、現実の世界からの判断と個人の判断に大 きな溝が生れています。

A君がそれで平気ならいいのです。つまり溝がうまれているから自分が人間でな いと判断するならそれもありえます。

たた通常は、こういう溝は人間だからありえるのです。この溝が生れる事がそ もそもA君が人間である証拠です。

溝が溝であると認識できる、それこそが人間の証明です。

場合によってA君は溝にたえられない場合があります。そうすると現実世界との 間とにおこっているとA君には感じられる対立に耐えるために緩衝材を必要とす るでしょう。

それが宗教であったりするのです。

しかしそもそも、対立などそこに存在しないのです。だから緩衝材も必要ない のです。

もし対立があるのだとしても、宗教は緩衝材になりえるのか。

わたしは宗教を緩衝材としている人間です。だからわたしにはこれを判断でき ません。宗教を保持していない人なら判断できるかもしれません。

宗教を保持しない人に、宗教を持つにいたる道を説明する事は不可能だという のがぼくの結論です。

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宗教を持つにいたる道

宗教を持つにはそれなりの理由とかがあるものです。ぼくの場合は宗教を保持 したのは大学の半ばあたりでした。

それ以前から宗教の知識はあったのですが、保持していたわけではありません。 単に知っていたに過ぎないのです。

大学の時ちょっと一瞬ですが行方不明になった事があります。まあ自分にとっ ては行方不明でもなんでもないのですが、周囲からすれば行方不明ですね。そ れ以後から宗教を持つ方向に向かっていったのです。

宗教を持つという事は宗教を理解しようとする事です。すでに理解しているな らぼくにとってそれは宗教ではありません。理解できていない事への探究がぼ くにとっての宗教です。

これは単純にしすぎているけれど、自分の宗教の教義を具体的にしめさないた めに最も良い説明です。

そんなに宗教を持つという事は単純な事ではないのですが、説明はかなり困難 を極めます。ぼくの言葉はぼくの言葉であり、他人の言葉ではないためです。

理解できない、という事を理解する事から初まります。

小さい頃、自分は異常だと思っていました。でも実際は選らばれて異常なわけ ではないのです。普通の異常だっただけです。皆異常なのです。皆と同じに異 常であっただけです。自分だけが異常に見えるのは、それは他者の言語が自分 の言語と違うから理解できないだけという事です。

多少は選民的思想を持った人は多いのではないでしょうか?まったく持たない で成長する事はないと思います。選民的思想は基本的に自閉的な傾向から生れ る場合が多いようですが、子供はだれしも自閉的な時期があるからです。

自分は捨て子でどこかに別の親がいるという思想や、自分は宇宙から来たとか、 いつの日か選択されるという思想などは自閉的な世界観と見る事ができます。

これを問題とは思いません。これが自閉的である自覚がありながらもそれをまっ とうしようとするのもありだと思います。

だた、ぼくはそういう方向ではなかったという事です。この方向性から逃れよ うとした時に宗教を持つにいたったのです。より深い意味を探るための自分の 意思を理解するために。

宗教というのは盲目を求めるものであってはいけないと思います。それは目を 開くための一つの道標であるべきです。

宗教を持つという事は宗教を理解するために人生を生きる事を選択したとう事 ですが、それほど単純であるなら宗教を持つ事はないのかもしれません。

書いていて意味不明だとわかっているのだが、、自分で今書くべき事を書けな いのは結構苦悩する。

ウィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインとも記述するが基本的にぼくはウィトゲンシュタインの 方で記述する。

天才です。

本当にすごすぎます。

ウィトゲンシュタインを理解する事ができない事を理解しました。

すさまじいいです。天才というのはこういう物なのだな、、と思います。

この日記はいやがらせです(笑

ぼくの日記をまじめに読む人へのいやがらせになっていますな。

まじめに読んでいる人がいるとは思えないが。

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式の作成のための式

「式」の作成は重要です。ほとんどは式を作成するためにあるような物です。 式を作成できればより多くに利益を与える事ができるのです。

しかし、「式」の作成方法を式とする事は可能ですが、さらに抽象度があがる ため、教える事の困難さがとたんに向上します。ほとんどの場合はヒントの提 示で終了してしまいます。

そもそも式を作成するための式を自分が十分に理解していないという事もあり ます。仮定式を作成しておき、それに具体値を入れた状態を示す事で自分の仮 定式の説明をするのがせいぜいの限界です。

仮定式には前提があり、その前提の説明も必要です。仮定式は常に成立しない 事がすでにわかっています。成立しない条件と成立する条件を提示しておく必 要があります。

仮定式の前提を十分理解しないと仮定式は利用できないのです。しかし、この 仮定式の前提が「式」で成立しています。式を説明する必要があるのですが、 これが抽象度が高く教えずらい。

結局「式」とは何かをうまく伝える事が十分にできないのが問題なのかもしれ ない。「式」がなぜ重要で、「式」にどのような意味があるのか。なぜ「式」 が利益を産み出すのか。そうした前提の知識が非常に重要なのだと思っている。

式の意味をおしえるには式そのものの十分な理解を行なうための基礎知識が必 要になります。これを順次考える必要があるのでしょう。

式を教えるための式。式を考えるための式。式とは何かを定義するための式。

式式式。

ぼくと同じ問題を考えている人がいると思う。きっと表現は違うかもしれない が。そうした人はどう考えているのだろうか、興味がある。

式の重要性の認識

普通にやっていると式の重要性は認識できると思う。というかある程度知識が あれば、そこらじゅうに式が登場しているのがすぐわかると思う。式の重要性 を認識できないのはただ漫然と物事に流されている場合ぐらいな物なのではな いだろうか。

式というのはいくつかの具象をまとめて、抽象として、それから作成する物で す。具象のサンプル数が少ない場合や、抽象にしずらい場合は一旦仮定式を定 義し、検算をして具象をあてはめる事で、抽象の評価をあげるわけです。

どのような式でも完全に証明されるまでは仮定式である事は注意しないといけ ません。

物事の重要性を判断する場合、その物事が式を含んでいるか、もしくは既存の 式の変更をせまる物であるかによって判断します。

式を含む物事は非常に重要です。それがエポックとなるからです。また既存式 の変革をせまるという事は証明すみと思われていた式が不正であった事を証明 するもしくは別の式の存在を示したとう事で画期的なわけです。

ものすごくわかりやす例を出すとデザインパターンは一つの式を提示していま す。これは画期的であると思いました。式をある事を提示したわけです。

また原爆の開発。これは既存式の変革をせまったわけです。極大値の代入が可 能である事を証明したとも見る事ができます。既存式では無視されていた値が 代入できたわけです。

式によって評価する場合、既存式に関して十分に理解しておく必要があります。 既存式を知らなければ、新規の式の価値、および既存式の例外値の提示を判断 できないからです。

現代社会は式の量が非常に多く、それらを完全に理解する事はかなり困難です。 また式関係の複雑さもあります。

ただし、式の式、式をもとめる式の理解をしようとする事で、ある程度負荷を 軽減できるのではないかと思っています。まだこれは仮定式をくみたてる段階 のためぼくにもよくわかりませんが。。

おいおいと式の本質という物を追っていきたいと思います。

長文書くと読みずらい

文章長いと読みずらいな、、

あまり読まれる事を前提としていないが、さずがに読みずらい。。

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周囲や社会は自分の鏡

周囲というのは自分の鏡です。時々、採用されない中途採用の面接に来た人と か、無職の人の文句や愚痴を聞いていると言いたくなる台詞。そして自分でも 忘れないようにしている言葉です。

たとえば、周囲の人が信用できない、というのは自分が信用できないという事 です。また、他人が裏切るように感じるというのは自分が裏切るからです。周 りが皆ガキに見えるなら、自分がガキです。

ぼくは周囲を本当の意味でおそらく信用していません。これは自分を信用して いないという事です。自分が最後には何もできないという事を知っている。と いうか不安に思っている。本当に最後を詰める事ができるのが不安だと言う事 です。

自分が信用できないのは、自分を不正確に拡張しようとする部分があるからで しょう。本来の能力をはるかに越える事をしようとしたりする時、不安が強く なります。

正直に自分の能力を見て、何ができて、何ができないのか。何を知り、何を知 らないのか。そして何を知るべきなのかを考えなければいけません。また、本 来できるであろう事に後込みするのは、本当の意味で自信がないからなのかも しれません。自分が周囲から認められないと思う。これは自分が自分を認めて いないと言う事に他なりません。

結局はすべての問題は自分にしかなく、自分の問題は自分を解決する事でしか 解決されない。いかにして自分を知るか。いかにして、その自分を認めるか。 そして現実を受けとめ、それに対してどのような結果を望み。その結果のため に努力できるか。単に、そういう事だと思います。

自分を知る事の困難さは、本当に想像以上です。

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異常性とおりあう

ぼくは自分に異常性がある事は認識しています。会社の中にいる場合、周囲の 人間は意外とぼくの行動や言動に慣れてしまっているので、異常性をそれほど 注目しないようです。かえってその異常性がぼくの特色として理解されている ようです。その異常性があるから、こういった技術方面の人間なのだという理 解になっているのかもしれないです。

ただ外部の人間と接触すると時分の異常性が結構うきぼりになる場合がありま す。かなり自分が変であるのだな、、と自覚するというか。

ほとんどの原因は言語上の問題なのだと思います。ぼくは他人に前提なしに物 事を語る場合が結構あります。ぼくの持つ前提ってのが、かなり人文系の知識 であったりするため普通には理解されない事柄である場合が多いですし、あと 説明が下手というのもある。

宗教や哲学を前提とした会話ってのはかなりわかりずらいでしょうな。。

その異常性を知りながら、外部との会話をする場合に十分に注意をはらうとい う事が必要になります。

自覚をもって、それをそうやって有効に活用するかが必要です。自分は自分で しかないので、理解した上で、それをどう活用するかを考えた方が良いと思っ ています。

興味の持続

最近は新しい事への興味はあるが、新しい事を知ったからといって必ずしもた めしてみようとは思わなくなってきた。

昔は新しいプログラミング言語をみつけると端から試していたのだが、文法定 義と仕様をながめて、よほと新規の思想がないとためさない。

そういう事をしているとめったな事では新規な物にでくわさなくなってしまう。 ほとんどの物事ってのは新規な物ってのはほとんどなくて、普通は既存の物の 組合せの妙である場合がほとんどだからです。

やはり自分で作成する時期なのかな、、自分で作成できないわけでないだろう が、意欲の問題もある。どうやって動機を維持するかが最大の問題なのだろう か。

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ちょっと旅に行っていました

ネットワークに接続できない場所に行く事もあります。

別に死んでいるわけではないですよ(^_^;;

あんまりメンテできない場所にいるって事を公開したくなかったので、一部だ けでしか報告しないで旅にいってみた。でもこのやりかたもあまりよろしくな いな。。

どういゆうやり方がいいのかはいつも思考錯誤中。

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Kerberosに重大な欠陥--ネットワーク認証に影響も

http://japan.cnet.com/news/sec/story/0,2000050480,20071643,00.htm

うわ、、、

とりあえずすぐになんかされるとは思えないですが、危険ですな。暗号関係や セキュリティ関係で脆弱性の報告が続いている印象がある。

まあ本当の所はたまたまなんだろうけど、セキュリティってかなり大変ですね。。

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哲学は根源を求めるなら必要です

デカルトはすばらしい。ウィトゲンシュタインは読むべきです。

プログラムをしていて、その根源を求めるなら哲学を知る事は必要です。本当 に根源を求める場合は何事も哲学に到達してしまう可能性を持っているのです が。

デカルトに関しては批判すべき点も多いのですが、物事を考える基礎として非 常に重要です。

ぼくは自分の宗教が理解できていないと常に感じています。より理解するため に哲学書を読み、それに簡易に註釈を付ける事で、自己の宗教への理解を深め るという事をします。註釈は自分の今の現状を強く表現します。哲学は思考の 種です。思考の道具です。

常に思考こそが自己の方向を決定していくのです。

なぜPythonなのか

ぼくは時々この質問を受けます。回答はだいたい決まています。

「それ以外はあんま頭良くなくて理解できなかったから」

これってPython使いに多い回答なのでしょうか?いままで会ったPython 使いで Pythonしか利用した事ないって人にはまだ会った事ないです。始めてのプログ ラム言語がPythonって人はいましたが、その人はPythonやりながらJava とか他 の言語を同時にやってました。

どうも比較により学ぶ事も多いようです。

Python以外は思考の速度にコーディングがついてこないのが苦痛。Schemeはま だましだけど、その他の言語は書くまでにそうとう考えないとダメだ。

単にぼくの性質の問題なのかもしれないけどね。

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