sakitoの異常性に関する考察
sakitoは見る人によってはかなり異常であると見えるはずです。そして実際異 常ではあります。それがなぜなのかをここで考察したいと思います。
まず、人間が生きているという事はどういう事なのでしょうか?
もしどこかの世界に生きるという現象を知らない何者かが存在しており、その 何者かに我々が「生きる」という事を言葉だけで伝える事ができるのでしょうか。
普通、こういう事はおこりえないでしょう。その何物かも、われわれから見る と生きているように見えるはずです。
正常な成人であれば生きていると感じない対象に生きている事とは何かという 説明をしようとはしないのではないでしょうか。
われわれが「生きている」と定義する事柄はどういう事か彼等に説明したけれ ば、しばらく彼等と一緒に生活してみれば良いでしょう。彼等が「生きている」 を何と呼ぶのかわかるはずです。もしくは彼等はそういう事を呼称する事を必 要としない物なのかもしれません。とにかく共に生活すれば事柄その物は説明 は可能です。
さて、これは何をあらわすか。普通は行動をする事により、規則や定義やそう いった物がうまれるわけです。
しかし、sakitoはすでに規則をもっています。それは通常宗教と呼称される規 則です。まだ体験した事のない事、本当に行動した事がない事さえも規則とし てある、それが宗教という規則です。
あたかもそれはサッカーを一度も見たことがなく、やった事がない人間に、サッ カーのルールブックを渡してサッカーをやっていると信じさせるのと同じ行為 です。
捻れているとわかるはずです。これがわかるという事はあなたはそう生きてい るからです。だれにとってもあたりまえの事があたりまえとわかる。それはあ たりまえなのにもかかわらず、あたりまえでない事です。
宗教の悪はここにあります。
宗教の中には規則のために実際をまげる事を求める物もあります。
たとえば、今までサッカーをやり続け、称賛されていた人がいたとします。し かし彼はサッカー以外にこの世に球技がある事を知らなかったと仮定します。
ある日彼が球技しないか、とバスケにさそわれたとします。
普通の人であれば、バスケの簡易ルールを聞き、まずは一緒にゲームをしてみ るでしょう。最初は下手くそでしょうが、しばらく練習すればバスケができる ようになるはずです。
では彼がちょっと異常であった場合、周りの人間がバスケをしている中でサッ カーをやり続けるかもしれません。彼はいままでサッカーでのみ成功して来た 人間です。バスケを認めない、もしくは認識できないという事かもしれません が。これは異常ですが、時々あるかもしれません。本人はそれが異常である事 にあまり気づかない。
では彼がサッカー教の教徒であり、球技はすべてサッカーである、という教義 を持っていたとする。バスケ(いやサッカーに見えない球技)を始めた周囲に対し て怒りをもち、バスケをしている人にサッカーを教えはじめるでしょう。
一部の人はサッカーもいいかも、とサッカーをやりはじめます。それをサッカー 教徒は教義の承認と見ます。しかし、ほとんどの人はバスケをしたいわけです からバスケを続けます。サッカー教徒はサッカーをしない人を強く憎むでしょ う。サッカーをしない人を殺したいくらいに。
もし教義の中にそれを正当化する記述があれば、、
もしも長く規則を守るために行動をまげるという習慣を持ちつづけた場合、実 践を普通に見る事ができなくなります。
これがsakitoが異常に見える事がある原因です。
妖怪人間ベムは人間になれるのか
ぼくは実際にはこのマンガ一部しか見た事はありませんが内容を簡単に書くと、 妖怪人間ベムは妖怪で、人間に貢献すれば人間になれると信じています。
そして人間になるために、人間に貢献しつづけます。
詳細は 妖怪人間ベム
を御覧ください。
ではベムは人間になれるのでしょうか?これが今回の問いです。
なれない可能性が高い、と思うのが個人的な結論です。
ではなれない、と仮定した場合どういう点からなれないと思うのかを書いてみ ます。
そもそも人間になれるなら、人間になりたいと望む事がないのかもしれません。
これに反論する場合、たとえば、A君という人間が「人間になりたい」といって A君は人間だから人間になる事を望めなくはないという反論が考えられますが、 それは違います。
A君の言う人間とベムの言う人間は別なのではないかという疑いがここにありま す。
ベムは人間ではありません。では人間とはどういう物なのかをどう判断してい るのでしょう?
ではA君は人間とはどういう物なのかをどう判断しているのでしょう?
ベムがなりたい人間はA君が人間であるような人間なのでしょうか?A君は自分 の事を人間だとは思っていませんよ?「人間になりたい」と望んでいるのです から。
ではA君のようになってもそれは人間ではないでしょうか?
そもそもA君は人間ではないのでしょうか?
人間が持つ人間の概念は一致しているはずです。どんな人間でも普通の成人で あれば人間を判断できるはずです。
ぼくが「人間である」A君と書きました。「人間になりたい」とA君がいっても、 つまりA君が自分の事を人間だと思っていなくても、A君はぼくにとっては人間 です。
もしあなたがA君にあった事があるなら、人間だと判断する可能性が高いです。
ベムはベムにとって「人間になりたい」と「いわなくてすむ」所にいたれるの でしょうか?
ベムが今妖怪であるなら、それはありえない、というのがぼくの結論です。
ベムを人間であると万人が認めたとしても、ベムが「人間になりたい」といっ ていれば、それは人間ではないのでしょうか?
この場合はA君が人間であるようにベムも人間なのでしょうか?
この悲しさが理解できるなら、妖怪人間ベムがいかに悲しい物語であるか理解 できると思います。
そしてA君がいかに幸福な人間であるかわかると思います。
改訂
妖怪人間ベムは人間になれるのかを読んだ前提として、先日の宗教を持つにい たる道の改訂版を書いてみます。
A君は自分の事を人間だとは思っていません。A君の認識する人間と、一般に人 間だと判断される基準は違うようです。
もしA君が本気で、自分の事を人間だと思っていない場合、もしくは人間であり えるはずがないと認識していた場合、現実の世界からの判断と個人の判断に大 きな溝が生れています。
A君がそれで平気ならいいのです。つまり溝がうまれているから自分が人間でな いと判断するならそれもありえます。
たた通常は、こういう溝は人間だからありえるのです。この溝が生れる事がそ もそもA君が人間である証拠です。
溝が溝であると認識できる、それこそが人間の証明です。
場合によってA君は溝にたえられない場合があります。そうすると現実世界との 間とにおこっているとA君には感じられる対立に耐えるために緩衝材を必要とす るでしょう。
それが宗教であったりするのです。
しかしそもそも、対立などそこに存在しないのです。だから緩衝材も必要ない のです。
もし対立があるのだとしても、宗教は緩衝材になりえるのか。
わたしは宗教を緩衝材としている人間です。だからわたしにはこれを判断でき ません。宗教を保持していない人なら判断できるかもしれません。
宗教を保持しない人に、宗教を持つにいたる道を説明する事は不可能だという のがぼくの結論です。
以下はゲストコメント可能です。名前とメールアドレスは任意の物を入力していただいてかまいません。 blog comments powered by Disqus