私が作ったと言う必要は本当にあるのか
私が作ったなどと言わなくてもその世界では普通に誰が作ったか皆知っている 物だと思う。
それを強く主張しなければいけないのは正当に評価されていない場合だろう。
私が作ったなり、私がやったなりを主張するのは評価を得たいから、と言う事 になる。
評価を正当に受けたいと思うのはあたりまえである。
しかしどうやれば評価を正当に受ける事ができるのかは私にはわからない。
評価を欲しがればほしがる程評価が落る気がしてならない。
私は結局自分の信念を信じてただ進む事、自分の正しさを実行する事以上の事 は考えない事にした。
人の権利は守るように気をつけている。常に調査をしている。それだけはおこ たらないようにしている。
しかし正式な弁護士でも分らないって言う事を私一人が判断できるはずもない。
いったい権利関係の調査に幾らかけた事か。。結論はわからない、になってし まったままだ。。
こうなったらしばらくは自分の信念に従ってすすむしかないではないか、あと は歴史の流れにまかせる。
それくらいしかできない無力さは恨めしい。
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