過去と対峙できるか
自分の過去は恥かしい場合も結構ある物です。若気の至りというやつですか?
わたしは別に自分の過去に恥じる所はないのですが、他者が見るとつっこみ所 が大量にあるのは理解しています。
若い時に結構いろいろやっていましたし、今も結構いろいろやっているわけでして、、
プライベートがかなりブラックな感じなのはあまり褒められた物ではないな、 と良く思います。
人は本当に過去と対峙できるのでしょうか?
例えば、ある団体に所属していたとして、その団体から抜けた場合。本当に抜 けた事を否定する方法は一つしかありません。
その団体を弾圧する事です。
日本でははるか昔からそうなっていますし、世界でもおそらくそうなのではな いでしょうか?
江戸時代など日本で宗教弾圧があった時、踏み絵や密告が必須だったのですし、 ヨーロッパでは魔女を密告する事で魔女にされるのがふせげたりしたのです。
近い時代でもいじめられたくなければ、いじめに加わるのが一番てっとり早い 事になっています。
しかし正直そんな事に労力使うのって無駄だと思うのですよね。だから本気で 抜けたならどうでも良いって事になるんではないかな、と思います。
でも気になる事は気になるのでちら見はしますけどね。
団体なんて結局意味あまりないですし、本質はもっと別の所にある物ですね。
そういえば新人が東京と関西方面の文化の違いを昼休み話してました。
ミスした時、東京だと「あやまれ」と言われてあやまっても「あやまっても仕 方ない」的反応をされるんだそうですが、関西だと「あやまれ」言われてあや まり続けると急に優しくなって食事に誘われたりするんだそうです。
本当でしょうかね?
これが本当だと東京だとミスしたら死ねって事になるんだろうな、、とちょっ と思いました。
これ、過去と対峙できない一番大きな要因なんじゃないでしょうか。
死ぬほどの事ではないしね。あやまったら終りにしましょうよ。と正直思います。
できないのかな。。どうなんでしょう?
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