宗教の保持とその問題
他人を愛せるのかと言えば、ぼくは愛せないです。自分を愛せないのに。
そもそもぼくは感情という物が希薄であり、また他者との間に薄い壁が常にある感覚を持っています。
これは生れついての性質のような物なので仕方ありません。
ただ、愛してみたいな、、という感情とかは少なくともあります。何せ自分の 親に対する感情とかもかなり希薄な状態になっていて、これはかなり悲しいと思うのです。
しかしこの場合悲しいという感情も、そうであるようにあれ、という前提あって の常識による感情であるだけなので、本当に悲しいのかは不明です。
この常識はぼくの場合前提が宗教によって成立しています。
ぼくは宗教を保持しています。正直に言えば、宗教は人間にとっての最大の害 悪であると思います。保持しなくて済むなら、保持しない方が良いでしょう。
しかし、ぼくには必要だったのです。
ぼくは感情以外にも常識の認識力とかが薄いです。そのため奇矯な言動行動を 行なう事があります。これは日常生活に問題を発生させるぎりぎりの線です。
ぼくの保持する宗教は歴史が古く、その内容はほとんどが行動原則です。
つまり常識のかたまりが宗教その物になったような物です。
宗教の保持は、規範の保持になるのです。これによりぼくの言動行動はほぼ正常に近づきます。
問題はこの宗教が非常に古い起源を持つ、という事なのかもしれないです。
宗教の規範が、現代的規範とづれる場合があるのです。
これによりちょっと変な言動行動する人だな、、という印象を与える事になり ます。言動行動が他人に理解されない場合もあります。
それに対して弁明とかをするべきなのかもしれないですが、あまり意味がないのでしません。 またちゃんと説明するには宗教を説明しないといけないのですが、宗教の詳細 な内容は教える事が禁止されています。
どうする事が良い事なのかがぼくにはわかっていないのですが、自分が保持し ている宗教の理解に生涯をついやしそうだという事は確実です。それでぼくは 満足です。
問題も多いのですが、ぼくには良い状態という事です。
宗教というのは理解するためのものです。決して人を傷つけたりする物ではありません。
その点だけは考慮すべきだと思います。
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