< 2004年07月 >
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宗教の保持とその問題

他人を愛せるのかと言えば、ぼくは愛せないです。自分を愛せないのに。

そもそもぼくは感情という物が希薄であり、また他者との間に薄い壁が常にある感覚を持っています。

これは生れついての性質のような物なので仕方ありません。

ただ、愛してみたいな、、という感情とかは少なくともあります。何せ自分の 親に対する感情とかもかなり希薄な状態になっていて、これはかなり悲しいと思うのです。

しかしこの場合悲しいという感情も、そうであるようにあれ、という前提あって の常識による感情であるだけなので、本当に悲しいのかは不明です。

この常識はぼくの場合前提が宗教によって成立しています。

ぼくは宗教を保持しています。正直に言えば、宗教は人間にとっての最大の害 悪であると思います。保持しなくて済むなら、保持しない方が良いでしょう。

しかし、ぼくには必要だったのです。

ぼくは感情以外にも常識の認識力とかが薄いです。そのため奇矯な言動行動を 行なう事があります。これは日常生活に問題を発生させるぎりぎりの線です。

ぼくの保持する宗教は歴史が古く、その内容はほとんどが行動原則です。

つまり常識のかたまりが宗教その物になったような物です。

宗教の保持は、規範の保持になるのです。これによりぼくの言動行動はほぼ正常に近づきます。

問題はこの宗教が非常に古い起源を持つ、という事なのかもしれないです。

宗教の規範が、現代的規範とづれる場合があるのです。

これによりちょっと変な言動行動する人だな、、という印象を与える事になり ます。言動行動が他人に理解されない場合もあります。

それに対して弁明とかをするべきなのかもしれないですが、あまり意味がないのでしません。 またちゃんと説明するには宗教を説明しないといけないのですが、宗教の詳細 な内容は教える事が禁止されています。

どうする事が良い事なのかがぼくにはわかっていないのですが、自分が保持し ている宗教の理解に生涯をついやしそうだという事は確実です。それでぼくは 満足です。

問題も多いのですが、ぼくには良い状態という事です。

宗教というのは理解するためのものです。決して人を傷つけたりする物ではありません。

その点だけは考慮すべきだと思います。

Author: sakito Category: /diary/2004 Permalink: Permalink
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