死さえも救いにならない
人にはそういう時もある。死が決っして救いにならない立場であったり、親が いたり。それが罪だとわかる。
死そのものが罰。どうやって逃げれば良いのか。逃げる事さえも罪なのだから。
生も死も救いの場がないなら、それはどうしようもない。そして救いをなんら かの祈りに託すか狂ってしまうか、選択肢は限られる。
おそらくそういう事は他者に理解される事はない。
それが他者が決して真の意味で宗教を理解できない理由。
選択肢があまりない。ただ祈りをささげ、狂っていくのを静かに見守るのみ。 それはまるで他人のように。
だからといってあきらめる事は罪。そこに何も救いはない。
あああ、まだ生きなければならない。
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