組織とソースコードは別物
ソースコードがオープンにされていれば、組織とソースコードは分離しているのではないだろうか。
オープンな資料の生存時間とか見ていると、組織とオープンなソースコードの生存時間は一致しないように感じる。
オープンな資料だと物によっては1000年以上生存している物もあるし。
まあ多少時間が経過してみないとわからないことも沢山ある気がしているので、歴史が証明していくのだろう。
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ソースコードがオープンにされていれば、組織とソースコードは分離しているのではないだろうか。
オープンな資料の生存時間とか見ていると、組織とオープンなソースコードの生存時間は一致しないように感じる。
オープンな資料だと物によっては1000年以上生存している物もあるし。
まあ多少時間が経過してみないとわからないことも沢山ある気がしているので、歴史が証明していくのだろう。
学校で学習したこと、体験したことってのは、重要で、社会の中で学ぶことに近い。
ただ学校は通常コントロールされているが社会はあまりコントロールされていない。
たまに、物語に出てくる学校で感じる違和感はなんだろう。物語のような学校ではなかったから、よくわからない。
学園物への違和感というのは、人によって学校の感じかたが違うからかもしれない。
インフラは、さて何かしよう、とした時に常に必要なのだが、案外考慮からはずれてしまう。なぜなら大概自然にそこに存在しているように見えるから。
あまりに自然にありすぎて、強く意識されていないため、普通の人からは考慮されなくなってしまう。
そして、何かやろうとするときに、そこに道が引かれていなくてびっくりする、なんてことになる。
インフラは先に作っておくべきなのだとおもわれる。
現実にはありえないような事項を実験的に想定して考えてみる、思考実験というのは、自分の論理感とかを確認するには時には必要なことのような気がしている。
人間は自分を確認すべきなのだと思う。
もうすこし、自分を知っている方が良いいのだろう。
知らないというのは常に不幸なことだと思うから。
睡眠時間をけずったり、昼休みを勉強会に利用したり、土日祝日でも読書会やってたり。
ちゃんと休んだ方が良いんぢゃないかと思うこともしばしばある。
そこまでやっても本当に成果がでているように見えなかったりすると、さらにそう思う。
効率というのは休むことも必要だと思うのだけどどうだろうか。
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